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玉勝間 / 十二の巻 又妹背山

萬葉に、せの山を越ゆとあれば、かの村の山なる事明らけし。川中の島は、いかでか越ゆる事あらむ。さて又川の南にも、岸まで出たる山有て、背ノ山と相對ひたれば、これや妹山ならむとも云ふべけれど、其山は、背、山よりやや高くて、山のさまも、背の山よりををしく見えて、妹山とは云ふべくもあらず。そのうへ河のあなたにて、大道にあらず。越ゆる山にあらざれば、妹の山せの山越えてと云へるにも、かなはざるをや。とにかくに妹山と云へるは、唯だ背の山と云ふ名につきての、詞のあやのみにて、いはゆる序枕詞のたぐひにぞ有ける。

新字:万葉に、せの山を越ゆとあれば、かの村の山なる事明らけし。川中の島は、いかでか越ゆる事あらむ。さて又川の南にも、岸まで出たる山有て、背ノ山と相対ひたれば、これや妹山ならむとも云ふべけれど、其山は、背、山よりやや高くて、山のさまも、背の山よりををしく見えて、妹山とは云ふべくもあらず。そのうへ河のあなたにて、大道にあらず。越ゆる山にあらざれば、妹の山せの山越えてと云へるにも、かなはざるをや。とにかくに妹山と云へるは、唯だ背の山と云ふ名につきての、詞のあやのみにて、いはゆる序枕詞のたぐひにぞ有ける。

書き下し

万葉に、せの山を越ゆとあれば、かの村の山なる事明らけし。川中の島は、いかでか越ゆる事あらむ。さてまた川の南にも、岸まで出でたる山有りて、背の山と相向かいたれば、これや妹山ならむとも云うべけれど、その山は、背山よりやや高くて、山のさまも、背の山よりおおしく見えて、妹山とは云うべくもあらず。そのうえ河のあなたにて、大道にあらず。越ゆる山にあらざれば、妹の山せの山越えてと云えるにも、かなわざるをや。とにかくに妹山と云えるは、ただ背の山と云う名につきての、詞のあやのみにて、いわゆる序枕詞のたぐいにぞ有りける。

現代語訳

万葉集に「背の山を越える」とあるのだから、あの村の山であることは明らかだ。川の中の島を、どうして越えることがあろうか。さてまた、川の南側にも岸まで張り出した山があって、背の山と向かい合っているので、これこそ妹山だろうとも言えそうだが、その山は背山よりやや高く、山の姿も背の山より雄々しく見えて、とても妹山とは言えない。そのうえ川の向こう側にあって、街道筋ではない。越えてゆく山ではないのだから、「妹の山背の山越えて」と詠んでいるのにも合わないではないか。とにかく妹山と言っているのは、ただ背の山という名にちなんだ言葉の綾にすぎず、いわゆる序詞や枕詞のたぐいなのである。

解説

前段の実地の見聞を受けて、妹背山についての結論を述べる。決め手は万葉集の「越ゆ」という一語である。歌が背の山を越えると言う以上、それは街道が越える陸の山であり、川中の島ではありえない。対岸の山を妹山に当てる説にも、形が雄々しくて「妹」らしくないこと、街道筋になく越える山ではないことを挙げて退ける。そのうえで宣長は、妹山とは背山という名から引き出された言葉の綾、序詞や枕詞に類するものだと見る。実在の山を探すより、歌の言葉の仕組みとして読むべきだというのである。古歌の地名に実体を求めすぎる名所考証への戒めであり、言葉は言葉として読むという古学の基本がここにも働いている。何でも実在の物に結びつけたくなる心を、一歩引いて見直させる。

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