玉勝間 / 十一の巻 源氏ノ長者
西宮記に、定源氏爵事、王卿中、以觸弘仁御後人、爲長者、(彼時有上臈源氏公卿、重明親王參議等是也。)と見えたり。等ノ卿は、もとより弘仁の御後なるを、重明親王は、延喜の御子におはすれども、御母ぞ、融ノ大臣の御孫、昇ノ大納言の御女におはしければ、これ弘仁の御後に觸たるなり。
新字:西宮記に、定源氏爵事、王卿中、以触弘仁御後人、為長者、(彼時有上臈源氏公卿、重明親王参議等是也。)と見えたり。等ノ卿は、もとより弘仁の御後なるを、重明親王は、延喜の御子におはすれども、御母ぞ、融ノ大臣の御孫、昇ノ大納言の御女におはしければ、これ弘仁の御後に触たるなり。
書き下し
西宮記に、源氏の爵を定むる事、王卿の中、弘仁の御後に触るる人を以て、長者と為す、(かの時上臈の源氏の公卿有り、重明親王参議等これなり。)と見えたり。等の卿は、もとより弘仁の御後なるを、重明親王は、延喜の御子におわすれども、御母ぞ、融の大臣の御孫、昇の大納言の御女におわしければ、これ弘仁の御後に触れたるなり。
現代語訳
『西宮記』に、「源氏の叙爵を定めること。王や公卿の中で、弘仁(嵯峨天皇)の御子孫につながる人を長者とする。(その時、上位の源氏の公卿がいた。重明親王と参議等がこれである。)」と見えている。源等卿は、もとより弘仁の御子孫であるが、重明親王は延喜(醍醐天皇)の御子でいらっしゃるけれども、御母が源融大臣の御孫、源昇大納言の御娘でいらっしゃったので、これで弘仁の御子孫につながっているのである。
解説
源氏の一族を統べる「源氏長者」が、もとはどのように定められたかを『西宮記』から確かめた段である。源氏は皇族が臣籍に下って源の姓を賜ったもので、最初は嵯峨天皇の皇子たちであった。『西宮記』によれば、源氏の叙爵を推挙する長者には、弘仁、すなわち嵯峨天皇の血を引く者を立てた。その例として参議源等と重明親王が挙がる。宣長は、醍醐天皇の皇子である重明親王がなぜ嵯峨の流れに入るのかを、母方が嵯峨源氏の源融・昇の家筋であることから説明する。源氏長者はのちに村上源氏が世襲し、さらに足利・徳川の将軍も称した。宣長の時代の将軍が帯びた称号の起こりを、平安の制度にさかのぼって示した考証でもある。有職故実の手堅い仕事である。
関連する章句
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『神皇正統記』巻四 第六十二代 村上天皇源氏と云ことは、嵯峨の御門世のつひえをおぼしめして、皇子皇孫に姓を給て人臣となし給。すなはち御子あまた源氏の姓を給る。桓武の御子葛原親王の男、高棟平の姓を給る。平城の御子阿保親王の男、行平・業平等在原の姓を給ることも此後のことなれど、これはたまたまの儀也。弘仁以後代々の御後はみな源姓を給しなり。親王の宣旨を蒙る人は才不才によらず、国々に封戸など立られて、世のつひえなりしかば、人臣につらね宦学して朝要にかなひ、器にしたがひ、昇進すべき御おきてなるべし。姓を給る人は直に四位に叙す。当君のは三位なるべしと云。かくて代々のあひだ姓を給し人百十余人もやありけん。しかれど他流の源氏、大臣以上にいたりて二代と相続する人の今まできこえぬこそいかなるゆゑなるらん、おぼつかなけれ。嵯峨の御子姓を給人二十一人。この中、大臣にのぼる人、常の左大臣兼大将、信の左大臣、融の左大臣。仁明の御子に姓を給人十三人。大臣にのぼる人、多の右大臣、光の右大臣兼大将。文徳の御子に姓を給人十二人。
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『玉勝間』二の巻 苗字藤原源などは、世に同じ氏の人、数しらず多かれば、その内を苗字して分かざれば、いとまぎらわしきままに、つねにその苗字をのみよびならいて、むねと成れる、これおのずから必ずしかるべき勢いにして、今はこの苗字ぞ、姓の如くなれりければ、姓の知られざらん人などは、苗字を正しく守るべきわざなりかし。さてこの苗字の苗字は、よしなき事なり。こはもと名字なりけむを、然書きては、名またあざなにまぎるる故に、書きかえたる物なるべし。名字と書かむも、当たれるにはあらざれども、中昔には、名をもまた姓と名とをつらねても、広く常に名字と云いつれば、姓の小分をも、同じく然云いならえりしなり。また今の人、おのが子の事をも、父の事をも、同苗と云う、これももと同名にて、同姓のよしなり。
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『玉勝間』二の巻 姓氏の事今の世には、姓の知られざる人のみぞ多かる。さるはいかなるしず山がつと云えども、みな古の人の末にては有るなれば、姓の無きはあらざんなる事なるを、中むかしよりして、いわゆる苗字をのみよびならえるままに、下下なる者などは、ことごとしく姓と苗字とを並べてなのるべきにも有らざるから、おのずから姓はうずもれ行きて、世世をへては、みずからだに知らずなれるなり。さて後になりのぼりて、人めかしく成れる者などは、姓の無きを、物げ無くあかぬ事に思いては、あるいは藤原、あるいは源平など、おのが好めるを、みだりにつく事いと多し。すべて足利の末のみだれ世よりして、天の下の姓氏ただしからず、皆いとみだりがわしくぞなれりける。その中に、近き世の人のなのる姓は、十に九つまでは、源藤原平なり。そは古のもろもろの氏氏は絶えて、この三氏のかぎり多くのこれるにやと思えば、さには有らず。中昔よりして、この三うじの人のみ、つかさ位高きは有りて、他のもろもろの氏人どもは、皆すぎすぎにいやしくのみなりくだれるから、その人は有りながら、その姓はおのずからかくれ行きて、おさおさ知る人も無く、絶えたるがごとなれるなり。
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『玉勝間』二の巻 姓氏の事またひとつには、近き世の人は、古のもろもろの姓をば、知る事無くして、姓はただ源平藤橘などのみなるがごと心得たるから、おのが好みてあらたにつくも、皆これらのうちなるが故に、古のもろもろの姓はきこえず、いよいよ源平藤は多くなりきぬるなり。また古の名高くすぐれたる人をしたいては、その子孫ぞと云いなして、学問するものは、菅原大江などに成り、武士は多く源に成るたぐいあり。すべて近き世は、よろしき程の人人も、ただ苗字をなんむねとはして、姓はかえりて、おもてにはたたざるならいなる故に、おのが心にまかせて物するなり。さてまた近き年ごろ、万葉ぶりの歌を詠み、古学をする輩は、また古き姓をおもしろく思いて、世の人の聞きもならわぬ、ふるめかしきを、あらたにつきてなのる者はた多かるは、かの漢学者の、からめかして、苗字をきりたちて、一字になすと同じたぐいにて、いとうるさく、その人の心のおさなさの、おしはからるるわざぞかし。古をしたうとならば、古のさだめを守りて、殊にさように、姓などをみだりにはすまじきわざなるに、かの禍津日前の探湯をもおそれざなるは、まことに古を好むとは云わるべしやは。
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『神皇正統記』巻四 第六十二代 村上天皇寛平の御記にそのはしのみえはべりし也。後をもよくかゞみさせ給けるにこそ。皇胤は誠に也にことなるべきことなれど、我国は神代よりの誓にて、君は天照太神の御すゑ国をたもち、臣は天児屋の御流君をたすけ奉るべき器となれり。源氏はあらたに出たる人臣なり。徳もなく、功もなく、高官にのぼりて人におごらば二神の御とがめ有ぬべきことぞかし。なかなか上古には皇子皇孫もおほくて、諸国にも封ぜられ、将相にも任ぜられき。崇神天皇十年に始て四人の将軍を任じて四道へつかはされしも皆これ皇族なり。景行天皇五十一年始て棟梁の臣を置て武内の宿禰を任ず。成務天皇三年に大臣とす。六代の朝につかへて執政たり。此大臣も孝元の曾孫なりき。しかれど、大織冠氏をさかやかし、忠仁公政を摂せられしより、もはら輔佐の器として、立かへり、神代の幽契のまゝに成ぬるにや。閑院の大臣冬嗣氏の衰たることをなげきて、善をつみ功をかさね、神にいのり仏に帰せられける、其しるしも相くはゝり侍けんかし。
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『神皇正統記』巻四 第六十二代 村上天皇大臣にのぼる人、能有の右大臣兼大将。清和の御子に姓を給人十四人。大臣にのぼる人、十世の御すゑに実朝の右大臣兼大将。陽成の御子に姓を給人三人。光孝の御子に姓を給人十五人。宇多の御孫に姓を給て大臣にのぼる人、雅信の左大臣、重信の左大臣。醍醐の御子に姓を給人二十人。大臣にのぼる人、高明の左大臣兼大将、兼明の左大臣。この後は皇子の姓を給ことはたえにけり。皇孫にはあまたあり。任大臣を本としるすによりてことごとくはのせず。ちかくは後三条の御孫に有仁の左大臣兼大将二世の源氏にて大臣にのぼれり。かやうにたまたま大臣に至てもいづれか二代と相継る。ほとほと納言以上までつたはれるだにまれなり。雅信の大臣の末ぞおのづから納言までものぼりてのこりたる。高明の大臣の後四代、大納言にてありしもはやく絶にき。いかにもゆゑあることかとおぼえたり。皇胤の貴種より出ぬる人、蔭をたのみ、いと才なんどもなく、あまさへ人におごり、ものに慢ずる心もあるべきにや。人臣の礼にたがふことありぬべし。
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