神皇正統記 / 巻四 第六十二代 村上天皇
源氏と云ことは、嵯峨の御門世のつひえをおぼしめして、皇子皇孫に姓を給て人臣となし給。すなはち御子あまた源氏の姓を給る。桓武の御子葛原親王の男、高棟平の姓を給る。平城の御子阿保親王の男、行平・業平等在原の姓を給ることも此後のことなれど、これはたま〳〵の儀也。弘仁以後代々の御後はみな源姓を給しなり。親王の宣旨を蒙る人は才不才によらず、国々に封戸など立られて、世のつひえなりしかば、人臣につらね宦学して朝要にかなひ、器にしたがひ、昇進すべき御おきてなるべし。姓を給る人は直に四位に叙す。当君のは三位なるべしと云。かくて代々のあひだ姓を給し人百十余人もやありけん。しかれど他流の源氏、大臣以上にいたりて二代と相続する人の今まできこえぬこそいかなるゆゑなるらん、おぼつかなけれ。嵯峨の御子姓を給人二十一人。この中、大臣にのぼる人、常の左大臣兼大将、信の左大臣、融の左大臣。仁明の御子に姓を給人十三人。大臣にのぼる人、多の右大臣、光の右大臣兼大将。文徳の御子に姓を給人十二人。
書き下し
源氏と云ことは、嵯峨の御門世のつひえをおぼしめして、皇子皇孫に姓を給て人臣となし給。すなはち御子あまた源氏の姓を給る。桓武の御子葛原親王の男、高棟平の姓を給る。平城の御子阿保親王の男、行平・業平等在原の姓を給ることも此後のことなれど、これはたまたまの儀也。弘仁以後代々の御後はみな源姓を給しなり。親王の宣旨を蒙る人は才不才によらず、国々に封戸など立られて、世のつひえなりしかば、人臣につらね宦学して朝要にかなひ、器にしたがひ、昇進すべき御おきてなるべし。姓を給る人は直に四位に叙す。当君のは三位なるべしと云。かくて代々のあひだ姓を給し人百十余人もやありけん。しかれど他流の源氏、大臣以上にいたりて二代と相続する人の今まできこえぬこそいかなるゆゑなるらん、おぼつかなけれ。嵯峨の御子姓を給人二十一人。この中、大臣にのぼる人、常の左大臣兼大将、信の左大臣、融の左大臣。仁明の御子に姓を給人十三人。大臣にのぼる人、多の右大臣、光の右大臣兼大将。文徳の御子に姓を給人十二人。
現代語訳
源氏ということは、嵯峨天皇が世の費えを考えられて、皇子・皇孫に姓を与えて臣下とされたことに始まる。すなわち御子が多く源氏の姓を賜った。桓武天皇の御子葛原親王の息子の高棟が平の姓を賜った。平城天皇の御子阿保親王の息子の行平・業平らが在原の姓を賜ったことも、これより後のことであるが、これはたまたまの措置である。弘仁以後、代々の天皇の御子孫はみな源姓を賜ったのである。親王の宣旨を受ける人は、才があるなしにかかわらず、国々に封戸などを立てられて世の費えであったので、臣下に連ね、官人として学ばせて朝廷の要に役立て、器量に従って昇進させるべきという御定めであろう。姓を賜る人はすぐに四位に叙される。当代の天皇の御子は三位であるべきだという。こうして代々の間に姓を賜った人は百十余人もあったであろうか。けれども他流の源氏で、大臣以上に至って二代と相続いた人が今まで聞こえないのは、どういう理由であろうか、いぶかしい。嵯峨天皇の御子で姓を賜った人は二十一人。この中で大臣に上った人は、常(ときわ)の左大臣兼大将、信(まこと)の左大臣、融(とおる)の左大臣。仁明天皇の御子で姓を賜った人は十三人。大臣に上った人は、多(まさる)の右大臣、光(ひかる)の右大臣兼大将。文徳天皇の御子で姓を賜った人は十二人。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻四 第六十二代 村上天皇大臣にのぼる人、能有の右大臣兼大将。清和の御子に姓を給人十四人。大臣にのぼる人、十世の御すゑに実朝の右大臣兼大将。陽成の御子に姓を給人三人。光孝の御子に姓を給人十五人。宇多の御孫に姓を給て大臣にのぼる人、雅信の左大臣、重信の左大臣。醍醐の御子に姓を給人二十人。大臣にのぼる人、高明の左大臣兼大将、兼明の左大臣。この後は皇子の姓を給ことはたえにけり。皇孫にはあまたあり。任大臣を本としるすによりてことごとくはのせず。ちかくは後三条の御孫に有仁の左大臣兼大将二世の源氏にて大臣にのぼれり。かやうにたまたま大臣に至てもいづれか二代と相継る。ほとほと納言以上までつたはれるだにまれなり。雅信の大臣の末ぞおのづから納言までものぼりてのこりたる。高明の大臣の後四代、大納言にてありしもはやく絶にき。いかにもゆゑあることかとおぼえたり。皇胤の貴種より出ぬる人、蔭をたのみ、いと才なんどもなく、あまさへ人におごり、ものに慢ずる心もあるべきにや。人臣の礼にたがふことありぬべし。
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『神皇正統記』巻四 第六十二代 村上天皇寛平の御記にそのはしのみえはべりし也。後をもよくかゞみさせ給けるにこそ。皇胤は誠に也にことなるべきことなれど、我国は神代よりの誓にて、君は天照太神の御すゑ国をたもち、臣は天児屋の御流君をたすけ奉るべき器となれり。源氏はあらたに出たる人臣なり。徳もなく、功もなく、高官にのぼりて人におごらば二神の御とがめ有ぬべきことぞかし。なかなか上古には皇子皇孫もおほくて、諸国にも封ぜられ、将相にも任ぜられき。崇神天皇十年に始て四人の将軍を任じて四道へつかはされしも皆これ皇族なり。景行天皇五十一年始て棟梁の臣を置て武内の宿禰を任ず。成務天皇三年に大臣とす。六代の朝につかへて執政たり。此大臣も孝元の曾孫なりき。しかれど、大織冠氏をさかやかし、忠仁公政を摂せられしより、もはら輔佐の器として、立かへり、神代の幽契のまゝに成ぬるにや。閑院の大臣冬嗣氏の衰たることをなげきて、善をつみ功をかさね、神にいのり仏に帰せられける、其しるしも相くはゝり侍けんかし。
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『神皇正統記』巻四 第六十二代 村上天皇此親王ぞまことに才もたかく徳もおはしけるにや。其子師房姓を給て人臣に列せられし、才芸古にはぢず、名望世に聞あり。十七歳にて納言に任じ、数十年の間朝廷の故実に練じ、大臣大将にのぼりて、懸車の齢までつかうまつらる。親王の女祇子の女王は宇治関白の室なり。仍此大臣をば彼関白の子にし給て、藤子にかはらず、春日社にもまゐりつかうまつられけりとぞ。又やがて御堂の息女に相嫁せられしかば、子孫もみな彼外孫なり。このゆゑに御堂・宇治をば遠祖の如くに思へり。それよりこのかた和漢の稽古をむねとし、報国の忠節をさきとする誠あるによりてや、此一流のみたえずして十余代におよべり。その中にも行跡うたがはしく、貞節おろそかなるたぐひは、おのづから衰てあとなきもあり。向後と云ふともつゝしみ思給べきこと也。大かた天皇の御ことをしるし奉る中に、藤氏のおこりは所々に申侍ぬ。源の流も久くなりぬる上に、正路をふむべき一はしを心ざしてしるし侍る也。君も村上の御流一とほりにて十七代に成しめ給。臣も此御すゑの源氏こそ相つたはりたれば、たゞ此君の徳すぐれ給けるゆゑに余慶あるかとこそあふぎ申はべれ。
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