玉勝間 / 十一の巻 ことば、ことのは
言を、ことば又ことのはと云ふ事は、古今集の序に見えたれど、萬葉には、こととのみ云ひて、ことばと云へるは、廿の卷なる東人の歌に唯だ一ッ、伊比之古度婆曾わすれかねつると有るのみなり。但しこれは、婆字は波を誤れるにて、波もてにをはならむも知がたし。此集には、波曾と重ね云へる例も、これかれ有ればなり。
新字:言を、ことば又ことのはと云ふ事は、古今集の序に見えたれど、万葉には、こととのみ云ひて、ことばと云へるは、廿の巻なる東人の歌に唯だ一ッ、伊比之古度婆曽わすれかねつると有るのみなり。但しこれは、婆字は波を誤れるにて、波もてにをはならむも知がたし。此集には、波曽と重ね云へる例も、これかれ有ればなり。
書き下し
言を、ことばまたことのはと云う事は、古今集の序に見えたれど、万葉には、こととのみ云いて、ことばと云えるは、廿の巻なる東人の歌にただ一つ、伊比之古度婆曽わすれかねつると有るのみなり。但しこれは、婆の字は波を誤れるにて、波もてにをはならむも知りがたし。この集には、波曽と重ね云える例も、これかれ有ればなり。
現代語訳
「言」を「ことば」また「ことのは」と言うことは、『古今和歌集』の序に見えるが、『万葉集』では「こと」とだけ言って、「ことば」と言っているのは、巻二十の東人の歌にただ一つ、「伊比之古度婆曽(言ひし言葉ぞ)忘れかねつる」とあるだけである。ただしこれは、「婆」の字は「波」を誤ったもので、「波」も助詞であるかもしれない。この集には「波曽(はぞ)」と重ねて言った例もあちこちにあるからである。
解説
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