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玉勝間 / 十一の巻 高野の玉川のうた

弘法大師の歌とて、「忘れてもくみやしつらむ旅人の高野のおくの玉川の水、と云ふ歌は、後の人の僞りて作れるものなり。空海の頃の歌のさまにあ、らず。そのうへ二の句、後の人をいましめたる意なれば、くみやせむと、こそ云ふべきに、さは云ひ難き故に、しつらむと云へるなれど、此詞かなはず、しつらむは、汲やしけむと、過し方を思へる詞なればなり。汲みやしぬべきなどは、など詠まざりけむ。すべてべきべしと云ふべき事を知らずして、必〓然いふべき所をも、らむと云ふは、後の世の人のつねなり。此歌風雅集に入れる、詞書に、云云此流レを飮むまじき由を、しめしおきて後、よみ侍けるとあるは、しつらむと云ふ言を、しひてたすけむとて、斯くは記されたるなるべけれど、しめしおきて後に詠める意にはあらず。よみ人の心は、今より後もし汲みやせむの意に云へるなり。

新字:弘法大師の歌とて、「忘れてもくみやしつらむ旅人の高野のおくの玉川の水、と云ふ歌は、後の人の偽りて作れるものなり。空海の頃の歌のさまにあ、らず。そのうへ二の句、後の人をいましめたる意なれば、くみやせむと、こそ云ふべきに、さは云ひ難き故に、しつらむと云へるなれど、此詞かなはず、しつらむは、汲やしけむと、過し方を思へる詞なればなり。汲みやしぬべきなどは、など詠まざりけむ。すべてべきべしと云ふべき事を知らずして、必〓然いふべき所をも、らむと云ふは、後の世の人のつねなり。此歌風雅集に入れる、詞書に、云云此流レを飲むまじき由を、しめしおきて後、よみ侍けるとあるは、しつらむと云ふ言を、しひてたすけむとて、斯くは記されたるなるべけれど、しめしおきて後に詠める意にはあらず。よみ人の心は、今より後もし汲みやせむの意に云へるなり。

書き下し

弘法大師の歌とて、「忘れてもくみやしつらむ旅人の高野のおくの玉川の水、と云う歌は、後の人の偽りて作れるものなり。空海の頃の歌のさまにあらず。そのうえ二の句、後の人をいましめたる意なれば、くみやせむと、こそ云うべきに、さは云い難き故に、しつらむと云えるなれど、この詞かなわず、しつらむは、汲みやしけむと、過ぎし方を思える詞なればなり。汲みやしぬべきなどは、など詠まざりけむ。すべてべきべしと云うべき事を知らずして、必ず然いうべき所をも、らむと云うは、後の世の人のつねなり。この歌風雅集に入れる、詞書に、云云この流れを飲むまじき由を、しめしおきて後、よみ侍りけるとあるは、しつらむと云う言を、しいてたすけむとて、かくは記されたるなるべけれど、しめしおきて後に詠める意にはあらず。よみ人の心は、今より後もし汲みやせむの意に云えるなり。

現代語訳

弘法大師の歌として、「忘れて汲んでしまったのではないだろうか、旅人が、高野の奥の玉川の水を」という歌は、後の人が偽って作ったものである。空海の頃の歌の姿ではない。そのうえ第二句は、後の人を戒めた意味であるから、「くみやせむ(汲みはしないか)」と言うべきなのに、そうは言いにくいので「しつらむ」と言ったのであろうが、この言葉は合っていない。「しつらむ」は「汲みやしけむ」と同じく、過ぎた方を思う言葉だからである。「汲みやしぬべき(汲んでしまいはしないか)」などと、どうして詠まなかったのだろう。すべて「べき」「べし」と言うべきことを知らずに、必ずそう言うべき所でも「らむ」と言うのは、後の世の人の常である。この歌が『風雅和歌集』に入っていて、その詞書に「……この流れを飲んではならないことを示し置いた後で詠みました」とあるのは、「しつらむ」という言葉を無理に助けようとして、このように記されたのであろうが、示し置いた後に詠んだ意味ではない。詠み手の心は、今から後にもし汲みはしないか、という意味で言ったのである。

解説

弘法大師空海の作と伝えられてきた「忘れても汲みやしつらむ」の歌を、後人の偽作と断じた段である。高野山の奥の玉川には毒虫がいるので飲むなと戒めた歌とされ、『風雅和歌集』にも空海の歌として入っている。宣長はまず歌の姿が平安初期のものでないと見る。さらに文法から論じ、未来のことを戒めるなら「汲みやせむ」「汲みやしぬべき」と言うべきで、過ぎたことを推し量る「しつらむ」は合わないと言う。「べし」を使うべき所に「らむ」を使うのは後世の人の癖であり、勅撰集の詞書もその無理を取り繕ったものにすぎないとする。宣長は『詞の玉緒』で助詞や助動詞の働きを精密に研究した。言葉の使い方一つから、名高い歌の作者の真偽まで見抜く、国語学者宣長の面目が表れている。

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