導師導古典を学びたいすべての人に

玉勝間 / 十一の巻 もろこしの国の王商といひし人の云へる言

もろこしの前漢の成帝と云ひしが時、何のゆゑも無きに、大水至らむと云ふこと出來て、都の民どもいみしく騒ぎける程に、朝廷にもその議有けるに、王商と云ふ人の云ひけるは、自古無道之國、水猶不冒城郭、今政治和平、世無兵革、上下相安。何因有大水暴至。此必訛言。と云へるによりて、其議止ぬるに、はたして訛言にて、事も無かりしかば、成帝王商をいたくほめたりとぞ。こは此人心に、訛言なる事をよく知れる故に、そを上にこびて、世の政のよろしきに事をよせて、よさまに斯くは云ひなせるか、はた實に然思へるか。いとよく治れる世にも、いみしき變事あること、無きにあらざれば、世をさまれりとて、いかでかさる事無からむとは知べき。されば實に然思ひて云へるならば、いと愚なる事なり。又訛言なる事をよく知りたらむにても、何の珍しき事かあらむ。すべてかうやうの訛言は、昔も今も多くある事にて云ひあつることは、絕えて無きものなれば、ひがことなる事は、始めよりしるきものを、此人の此言によりて、議を止たるは、いとをかしき事なり。もろこし人は、かしこげに物は云へども、いと愚かなる物にぞ有ける。

新字:もろこしの前漢の成帝と云ひしが時、何のゆゑも無きに、大水至らむと云ふこと出来て、都の民どもいみしく騒ぎける程に、朝廷にもその議有けるに、王商と云ふ人の云ひけるは、自古無道之国、水猶不冒城郭、今政治和平、世無兵革、上下相安。何因有大水暴至。此必訛言。と云へるによりて、其議止ぬるに、はたして訛言にて、事も無かりしかば、成帝王商をいたくほめたりとぞ。こは此人心に、訛言なる事をよく知れる故に、そを上にこびて、世の政のよろしきに事をよせて、よさまに斯くは云ひなせるか、はた実に然思へるか。いとよく治れる世にも、いみしき変事あること、無きにあらざれば、世をさまれりとて、いかでかさる事無からむとは知べき。されば実に然思ひて云へるならば、いと愚なる事なり。又訛言なる事をよく知りたらむにても、何の珍しき事かあらむ。すべてかうやうの訛言は、昔も今も多くある事にて云ひあつることは、絶えて無きものなれば、ひがことなる事は、始めよりしるきものを、此人の此言によりて、議を止たるは、いとをかしき事なり。もろこし人は、かしこげに物は云へども、いと愚かなる物にぞ有ける。

書き下し

もろこしの前漢の成帝と云いしが時、何のゆえも無きに、大水至らむと云うこと出で来て、都の民どもいみじく騒ぎける程に、朝廷にもその議有りけるに、王商と云う人の云いけるは、古より無道の国も、水なお城郭を冒さず。今政治和平にして、世に兵革無く、上下相安んず。何に因りてか大水暴かに至ること有らん。これ必ず訛言ならん。と云えるによりて、その議止みぬるに、はたして訛言にて、事も無かりしかば、成帝王商をいたくほめたりとぞ。こはこの人心に、訛言なる事をよく知れる故に、そを上にこびて、世の政のよろしきに事をよせて、よさまにかくは云いなせるか、はた実に然思えるか。いとよく治まれる世にも、いみじき変事あること、無きにあらざれば、世おさまれりとて、いかでかさる事無からむとは知るべき。されば実に然思いて云えるならば、いと愚かなる事なり。また訛言なる事をよく知りたらむにても、何の珍しき事かあらむ。すべてこうようの訛言は、昔も今も多くある事にて云いあつることは、絶えて無きものなれば、ひがことなる事は、始めよりしるきものを、この人のこの言によりて、議を止めたるは、いとおかしき事なり。もろこし人は、かしこげに物は云えども、いと愚かなる物にぞ有りける。

現代語訳

中国の前漢の成帝という皇帝の時、何の理由もないのに、大水がやって来るという噂が起こって、都の民がひどく騒いだので、朝廷でもそのことについて議論があった。その時、王商という人が言うには、「昔から、道に外れた国でさえ、洪水が城郭を侵したことはない。今は政治が穏やかで、世に戦乱もなく、上下が互いに安らいでいる。どうして大水が突然やって来ることがあろうか。これは必ずデマであろう」と言ったので、その議論はやんだ。はたしてデマで何事もなかったので、成帝は王商をたいへん褒めたという。これは、この人が心の中でデマであることをよく知っていたので、それを上に媚びて、世の政治がよいことにかこつけて、うまくこう言いなしたのか、それとも本当にそう思っていたのか。たいへんよく治まった世にも、大きな異変が起こることがないわけではないから、世が治まっているからといって、どうしてそういう事がないと知ることができようか。だから本当にそう思って言ったのなら、たいへん愚かなことである。またデマであることをよく知っていたにしても、何の珍しいことがあろうか。すべてこのようなデマは、昔も今も多くあることで、言い当てることはまったくないものであるから、誤りであることは初めから明らかなのに、この人のこの言葉によって議論をやめたのは、たいへん滑稽なことである。中国の人は、賢そうに物を言うけれども、たいへん愚かなものである。

解説

『漢書』に見える、前漢の王商が洪水のデマを退けた話を取り上げ、その論法の愚かさを突いた段である。中国では王商の沈着な判断として称えられてきた逸話だが、宣長は理由づけに目を向ける。政治がよく治まっているから大水は来ない、という論は、よい政治には天災が起きないという儒教の天人相関の考えに立っている。しかし治まった世にも天災は起こる。本気でそう思ったのなら愚かであり、デマと知っていて上に媚びたのなら、ただのへつらいである。デマはもともと当たらないものだから、見抜いたこと自体は珍しくもない、と宣長は言う。結論が正しくても、理由が誤っていれば褒めるに値しないという指摘である。結びの中国人評は漢意批判の口ぶりだが、議論の筋道を吟味する目は鋭い。

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る