玉勝間 / 三の巻 五十師原山辺御井
そもそも古、の御井は、此二つのうち、いづれならん、定めがたし。赤人の硯水と云ひ傳へたるは、初めに云へる方なり。ただし百三四十年ばかりもさきに、或人の、此國の事どもしるせる、勢陽雜記といふ物には、かの赤人の屋敷の事を云ひて、その麓に清水有リ、赤人の硯水なり、と云ひ傳へたりとしるせるは、後のかたを云へるやうに聞えたり。後のかたは、かの麓といふべき所、はじめのかたは、ややさかりて、かの麓とは云ふまじき所なればなり。されどこは、たしかにみづから行き見てしるせるか、はた里人の語れるを聞きて、大かたに云へるか、知りがたければ、賴みがたし。そはとまれかくまれ、五十師ノ原山ノ邊は、うたがひ無く此ところにて、赤人屋敷と云ふ地ぞ、行宮の御跡なるべく、又御井も、かの二つのうちははづるべからずとぞ思はるる。然るを師の萬葉考には、五十師原を、五十鈴ノ原と改めて、かの長歌を、大御神の宮づかへの事に說なして、鈴鹿ノ郡の山邊なりと云ふを破りて、くさぐさ論ぜられたれども、其說ことごとくあたらぬ事なり。
新字:そもそも古、の御井は、此二つのうち、いづれならん、定めがたし。赤人の硯水と云ひ伝へたるは、初めに云へる方なり。ただし百三四十年ばかりもさきに、或人の、此国の事どもしるせる、勢陽雑記といふ物には、かの赤人の屋敷の事を云ひて、その麓に清水有リ、赤人の硯水なり、と云ひ伝へたりとしるせるは、後のかたを云へるやうに聞えたり。後のかたは、かの麓といふべき所、はじめのかたは、ややさかりて、かの麓とは云ふまじき所なればなり。されどこは、たしかにみづから行き見てしるせるか、はた里人の語れるを聞きて、大かたに云へるか、知りがたければ、頼みがたし。そはとまれかくまれ、五十師ノ原山ノ辺は、うたがひ無く此ところにて、赤人屋敷と云ふ地ぞ、行宮の御跡なるべく、又御井も、かの二つのうちははづるべからずとぞ思はるる。然るを師の万葉考には、五十師原を、五十鈴ノ原と改めて、かの長歌を、大御神の宮づかへの事に説なして、鈴鹿ノ郡の山辺なりと云ふを破りて、くさぐさ論ぜられたれども、其説ことごとくあたらぬ事なり。
書き下し
そもそも古の御井は、此二つのうち、いずれならん、定めがたし。赤人の硯水と云い伝えたるは、初めに云える方なり。ただし百三四十年ばかりもさきに、或人の、此国の事どもしるせる、勢陽雑記という物には、かの赤人の屋敷の事を云いて、その麓に清水有り、赤人の硯水なり、と云い伝えたりとしるせるは、後のかたを云えるように聞こえたり。後のかたは、かの麓というべき所、はじめのかたは、ややさかりて、かの麓とは云うまじき所なればなり。されどこは、たしかにみずから行き見てしるせるか、はた里人の語れるを聞きて、大かたに云えるか、知りがたければ、頼みがたし。そはとまれかくまれ、五十師の原山の辺は、うたがい無く此ところにて、赤人屋敷と云う地ぞ、行宮の御跡なるべく、又御井も、かの二つのうちははずるべからずとぞ思わるる。然るを師の万葉考には、五十師原を、五十鈴の原と改めて、かの長歌を、大御神の宮づかえの事に説きなして、鈴鹿の郡の山辺なりと云うを破りて、くさぐさ論ぜられたれども、其説ことごとくあたらぬ事なり。
現代語訳
そもそも古の御井は、この二つのうちどちらであろうか、決めがたい。赤人の硯水と言い伝えているのは、初めに述べた方である。ただし百三、四十年ほど前に、ある人がこの国のことを記した『勢陽雑記』という書物には、あの赤人の屋敷のことを述べて、「その麓に清水がある。赤人の硯水だと言い伝えている」と記しているのは、後の方の井戸を言っているように思われる。後の方は「麓」と言ってよい所であり、初めの方は少し離れていて「麓」とは言えない所だからである。けれどもこれは、確かに自分で行って見て記したのか、それとも里人の話を聞いておおよそに言ったのか分からないので、頼りにはできない。それはともかく、五十師の原・山の辺は疑いなくこの場所であって、赤人屋敷という土地こそ行宮の跡であろうし、また御井もあの二つのうちから外れることはないと思われる。ところが師(賀茂真淵)の『万葉考』では、五十師原を「五十鈴の原」と改めて、あの長歌を天照大御神への宮仕えのことと説き、鈴鹿郡の山辺だという説を退けてさまざまに論じておられるが、その説はことごとく当たらない。
解説
関連する章句
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井万葉集の歌によめる、伊勢の国の五十師の原山の辺の御井は、鈴鹿の郡にて、今も山辺村と云う所なり。そこに山辺の赤人の屋敷跡と云い伝えたる地あり。又同じ人の硯水とて、古き井も有り。これ山の辺の御井なり。然るに赤人の事をしも云い伝えたるは、中昔よりして、山部ちょう姓と、山辺ちょう姓とまがいて、赤人の姓をも山の辺とせるから、此地の名につきて、云いよせたるひが事なり。さるはかの赤人は、世にあまねく名高き人なるが故ぞかし。さて五十師原を、万葉の今の本に、いそしのはらと訓みたれども、古はいそと云うに、五十と書ける事無ければ、誤なり。いしのはらと訓むべし。五十と書けるをば、伊と訓む古書の例なればなり。いしのはらとては、此句六文字にて、調悪ろしと思う人もあるべかめれど、そのかみ七もじの句を、六もじに云える例おおき中に、地の名などは、殊によりくるままに、四文字にも六文字にも詠める、つねの事なり。さていしの原と云う名のよしは、今石薬師の駅に、石薬師とて寺有りて、石の仏をまつれる、そは地の上におのずからに立てる、大きなる石のおもてに、薬師と云う仏のかたをえり附けたるにて、此石あやしき石なり。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井そのよしを云わんに、数数あり、一つには、まず師の字と鈴の字とは、楷書はさらにも云わず、草書も形似ざれば、誤るべきに有らず。二つにはもし五十鈴の原ならんには、さく鈴のとも、さくくしろとも、古き枕詞の有るをおきて、山のほとりならむからに、山のべのと、させるよしも無き事を云うべきにあらず。一の巻なる歌には、山のべの御井を見がてりとも有れば、山のべは必ず地の名なるを、五十鈴の原のあたりには、古よりさる地の名あること無し。すべてかの神宮のあたりに古き所は、さしもあらぬだに、その所は失うと云えども、さすがに名は残りて、かしこの書どもに見えざるは無きを、これはさばかり古く、名高き所なるに、見えざるべきよう無し。三つには、かの長歌、もし大御神の宮づかえの事を詠めるならば、必ずその大御神の鎮り座す事のよしなどをこそ云うべきに、その大御神の御事は、一言も云わずして、にわかに大宮づかえと云うべきよし無し。始めより日の御子の御食つ国と云いて、大宮づかえと云えるは、天皇の宮なること疑い無く、其うえ島の名高しと云うまで、行宮より見渡したるけしきをもて云えるさま、いちじるし。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井四つには、斎内親王の宮仕えし給うことならば、いつきのみことも、ひめみことも何とも、其御事と聞こゆる詞あるべきに、さること一言も無くて、ゆくりなく大宮づかえと云うべき物かは。唯だ天皇に仕え奉る女官たちなる事、論無き物をや。五つには、ももしきの大宮人とは、天皇に仕え奉る人とこそ聞こえたれ。たとい本は大内より来し人なればとても、今斎王に仕え奉り居る人を、うちまかせて然か云わん事はいかが。六つには、もし斎王の大御神に仕え給う事を詠める歌ならむには、反歌に御井の事のみを詠めるは、何のよしぞや。七つには、かの鈴鹿郡なる山の辺の事を、俗説なりとて、やぶられたるもあたらず。俗説とは、赤人の跡と云う事なり。赤人の事は、山辺という地の名によりて、附会したる物なれば、其説こそ俗説なれ、それをとり捨てたらむに、何の俗なる事か有らん。そもそもしか赤人の事を云いよせたるも、もと山辺という所、又古き清水のある故なれば、それもかえりて、古き跡なる証とこそすべけれ。又かの山辺村に、古え倭姫の命の宮有りしと云うも、偽なりとて、そのよしを論ぜられたるもあたらず。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井これによりて思うに、仏をえりたるは、ほうしの例のしわざにて、後の事にて、もとは上つ代より、此あやしき石の有りしによりてぞ、いしの原とは名に負いたりけむ。今もそのあたり、広くかの山辺村のきわまで、同じ野の続ける所なり。かくて万葉集十三の巻なるかの長歌は、持統天皇の、此国に行幸ありしおりの、行宮のさまをよめりと聞こえたれば、かの赤人の屋敷跡と云うなる地ぞ、その行宮の跡なるべき。おのれ此の地の事、年ごろ猶いぶかしかりければ、いにし寛政元年三月、尾張の名児屋に物せしかえるさに、立ちよりて考えしに、まず山辺村、今はやまべと云いて、鈴鹿の郡にて、河曲の郡の堺なり。石薬師の駅より、六七町もあらんか、野原を行きて、東北の方なり。その野は、まりが野と云いて、西の方は能煩野へ続きて、いといと広きを、此山辺村は、その野の東のはずれのにわかにくだりたるきわの、ひきき所なる故に、東の方より見れば、小山の麓なり。さればかの長歌の反歌に、おのずからなれる錦を張れる山かもと詠めるも、西の方よりは、ただ平なる地の続きなれども、東より見たるさまによりて、山とは云えるなりけり。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井もと水有りしが、近き頃となりては、あせて、水は無かりけれど、此一とせ二とせさきまでは、井のかたは残れりしと云うを見れば、今は井のかただにのこらず、皆田に成りて、唯だいささかなる所に、古き松一もと立てるのみなるを、此松の本なん、御井の跡なると云えり。その近き里に、八十八になれりという翁のあるが、語りけるは、此松、おのが若かりしほどに、年老いたる者の、昔も今も同じ事にて、かわらずと云いしを、その頃も今も、又いささか変れる事無く、高くも太くもならず、ただ同じ事なりとぞ語りける。今見るに、さしも大きなる木にも有らず。よろしき程にて、まことに古くは見えたり。今より後、もし此松さえ枯れ失せたらんには、さばかりの御井の、名残りだになく、消えはてなん事、いともいとも心うく、うれわしきわざなれば、いかで石ぶみなどを建てて、跡をだに、長き世まで残さまほしきわざなりかし。さて又かの赤人屋敷と云う所より、東北の方へくだれる所にも、古く見ゆる井有り、山辺村の東南のはずれの所なり。こは世のつねの井のさまに、石を積みめぐらして、水も有り、此水、いみしきひでりにもかれずと里人云えり。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井錦をはれるとは、かの行幸は、六年の三月なれば、桜桃などの花を云えるか。又は大宝二年十月にも、同じ天皇、参河国に行幸有りしかば、其時にてもあらむか。もし然らば行宮は、参河への道次の行宮にて、錦は紅葉なるべし。とにかくに長歌のよう、女房たちの宮づかえのさまを詠めりと聞こゆれば、必ず持統天皇なるべし。さて此あたり、今はすべて松山にて、あだし木はすくなし。かの赤人屋敷と云うは、山辺村より南の方へいささかのぼりて、高き所に在りて、たても横も半町には足らぬ程のたいらにて、今は畠なり。其西北のすみの所に、石垣と云う物も有りしを、五六十年ばかりさきに、里人の埋みしとぞ。又此所の土の中より、碁石の如くなる、小さき石に仏経の文字を彫りたるを、おりおり掘り出ること有りと云えり。さてそのあたりより、伊勢の海よく見渡されて、ここより見れば、まことに水門なすと詠めるさまなり。尾張参河の山山も、伊勢の山山島島も、よく見え、高岡川という川、村の東を流れて、ま近く見おろさるるなど、すべてかの長歌のけしきに、よくかなえる所なり。御井は、そこより南の、すこし西の方へくだりたる、谷あいの田の中に有り。
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