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玉勝間 / 一の巻 古今集の長歌の事

古今集の長歌、はじめに載せたるは、いといとつたなし。其歌に、なにしかも人をうらみむと云へること、上下にあひあづからざる事なり、此二句をのぞきて善けん。又一うたのうちに、思と云ふ詞九つ有て、いと耳かしかましき中に、けなばけぬべく思へどもと云へる事さへ、二所に重なりて有るはいかにぞや。思へどもと云ふ句は、猶今一つあり。又思ひは深しと云へる句、又とぢめの二句などは、ちからなく聞えて漂よはし、次に貫之の歌、目錄ならんからに、事の續きざま、むげにことわり無し。忠岑は一ふし有て聞ゆ。躬恒、なにのふしも無し。伊勢は中によろし。そもそも斯くあげつらふは、いとおふけなけれど、猶えあらでなん。

新字:古今集の長歌、はじめに載せたるは、いといとつたなし。其歌に、なにしかも人をうらみむと云へること、上下にあひあづからざる事なり、此二句をのぞきて善けん。又一うたのうちに、思と云ふ詞九つ有て、いと耳かしかましき中に、けなばけぬべく思へどもと云へる事さへ、二所に重なりて有るはいかにぞや。思へどもと云ふ句は、猶今一つあり。又思ひは深しと云へる句、又とぢめの二句などは、ちからなく聞えて漂よはし、次に貫之の歌、目録ならんからに、事の続きざま、むげにことわり無し。忠岑は一ふし有て聞ゆ。躬恒、なにのふしも無し。伊勢は中によろし。そもそも斯くあげつらふは、いとおふけなけれど、猶えあらでなん。

書き下し

古今集の長歌、はじめに載せたるは、いといとつたなし。その歌に、なにしかも人をうらみむと云えること、上下にあいあづからざる事なり、この二句をのぞきて善けん。また一うたのうちに、思と云う詞九つ有りて、いと耳かしかましき中に、けなばけぬべく思えどもと云える事さえ、二所に重なりて有るはいかにぞや。思えどもと云う句は、なお今一つあり。また思いは深しと云える句、またとぢめの二句などは、ちからなく聞こえて漂よわし、次に貫之の歌、目録ならんからに、事の続きざま、むげにことわり無し。忠岑は一ふし有りて聞こゆ。躬恒、なにのふしも無し。伊勢は中によろし。そもそも斯くあげつらうは、いとおおけなけれど、なおえあらでなん。

現代語訳

古今集の長歌のうち、初めに載せてあるものはたいへん拙い。その歌に「なにしかも人をうらみむ(どうして人を恨もうか)」と言っていることは、上下とかかわりのないことで、この二句を除いたらよいだろう。また一首のうちに「思」という言葉が九つもあって、たいへん耳にうるさい中に、「けなばけぬべく思えども(消えるなら消えてしまいそうに思うけれども)」ということさえ二か所で重なっているのはどういうことか。「思えども」という句はなおもう一つある。また「思いは深し」という句や、結びの二句などは、力なく聞こえて漂っている。次に貫之の歌は、目録のようなものだからといって、事の続き方がまったく筋が通らない。忠岑のは一つ見どころがあって聞こえる。躬恒のは何の見どころもない。伊勢のはその中ではよい。そもそもこのように論じるのはたいへん身の程知らずだが、やはり言わずにはいられないのである。

解説

古今集に収められた長歌を、一首ずつ遠慮なく批評した段である。巻頭の長歌については、前後とつながらない二句を削れ、一首に「思」が九回も出て耳にうるさい、同じ句が重なる、結びに力がない、と手厳しい。撰者の紀貫之の長歌も、目録のような歌とはいえ筋が通らないと切り、忠岑は一節あり、躬恒は何もない、伊勢は良いと採点していく。古今集は歌の聖典として仰がれてきた歌集である。その撰者にまで遠慮なく評を加え、最後に「身の程知らずだが言わずにいられない」と添えるところに、宣長の率直さがある。権威ある作品でも、一語一句を自分の耳で確かめて評価する。その姿勢は、古典を生きた言葉として読むための第一歩である。

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