玉勝間 / 五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つ
歌によりて思ふに、とぶらひたりける人の、など有べきにや、「おもほえず袖に云云、袖に湊のと云ふこと、聞えず。又眞名本に、袖に浪渡のと書るは、下句とむげにかけあはず、ひが事なり。浪渡は、異所にも斯く書て涙なり。されば思ふに、こは袖の湊のなるべし。たとひ袖の湊と云ふ名所は無くとも、涙の深き事を、下ノ句の緣に、然か云ひつべき物なり、ノをニに誤れるなるべし。女の手あらふところに云云、ここの文きこえず。眞名本にて聞えたり。但しかの本も、泣く影のうつりげるを見ててふ下に、女と云ふ言無くてはいかが。たち聞ても、彼本に聞きつけてと有るぞ善き。「水口に我や云云、此歌の初二句の注ども、いづれもいささかたがへり。こはさだめてわが泣影も、ともに見えやすらんと云へるなり。かやうに見ざれば、下句にかなはず。わが影の見ゆるにや有らむと云ふとは異なり。「ならはねば云云、此歌、詞たらはで、聞えぬ歌なり。とかくなまめくあひだに、かのいたる螢を云云、かくては、なまめくは、いたるには有ら、で、異人と聞えていかが。とかくなまめきつつ、螢をとりて、などこそ有べけれ。
新字:歌によりて思ふに、とぶらひたりける人の、など有べきにや、「おもほえず袖に云云、袖に湊のと云ふこと、聞えず。又真名本に、袖に浪渡のと書るは、下句とむげにかけあはず、ひが事なり。浪渡は、異所にも斯く書て涙なり。されば思ふに、こは袖の湊のなるべし。たとひ袖の湊と云ふ名所は無くとも、涙の深き事を、下ノ句の縁に、然か云ひつべき物なり、ノをニに誤れるなるべし。女の手あらふところに云云、ここの文きこえず。真名本にて聞えたり。但しかの本も、泣く影のうつりげるを見ててふ下に、女と云ふ言無くてはいかが。たち聞ても、彼本に聞きつけてと有るぞ善き。「水口に我や云云、此歌の初二句の注ども、いづれもいささかたがへり。こはさだめてわが泣影も、ともに見えやすらんと云へるなり。かやうに見ざれば、下句にかなはず。わが影の見ゆるにや有らむと云ふとは異なり。「ならはねば云云、此歌、詞たらはで、聞えぬ歌なり。とかくなまめくあひだに、かのいたる蛍を云云、かくては、なまめくは、いたるには有ら、で、異人と聞えていかが。とかくなまめきつつ、蛍をとりて、などこそ有べけれ。
書き下し
歌によりて思うに、とぶらいたりける人の、など有るべきにや、「おもおえず袖に云云、袖に湊のと云うこと、聞えず。又真名本に、袖に浪渡のと書けるは、下の句とむげにかけあわず、ひが事なり。浪渡は、異所にも斯く書きて涙なり。されば思うに、こは袖の湊のなるべし。たとい袖の湊と云う名所は無くとも、涙の深き事を、下の句の縁に、然か云いつべき物なり、のをにに誤れるなるべし。女の手あらうところに云云、ここの文きこえず。真名本にて聞えたり。但しかの本も、泣く影のうつりけるを見てちょう下に、女と云う言無くてはいかが。たち聞きても、かの本に聞きつけてと有るぞ善き。「水口に我や云云、この歌の初めの二句の注ども、いずれもいささかたがえり。こはさだめてわが泣く影も、ともに見えやすらんと云えるなり。こうように見ざれば、下の句にかなわず。わが影の見ゆるにや有らむと云うとは異なり。「ならわねば云云、この歌、詞たらわで、聞えぬ歌なり。とかくなまめくあいだに、かのいたる蛍を云云、かくては、なまめくは、いたるには有らで、異人と聞えていかが。とかくなまめきつつ、蛍をとりて、などこそ有るべけれ。
現代語訳
歌によって考えると、「とぶらいたりける人の(見舞った人が)」などとあるべきであろうか。「思おえず袖に」云々。「袖に湊の」ということは意味が通らない。また真名本に「袖に浪渡の」と書いているのは、下の句とまったくかみ合わず、誤りである。「浪渡」は、他のところでもこう書いて「涙」のことである。そこで考えると、これは「袖の湊の」であろう。たとえ「袖の湊」という名所はなくても、涙の深いことを、下の句の縁によってそう言うことができるものである。「の」を「に」に誤ったのであろう。「女の手洗うところに」云々のところの文は意味が通らない。真名本では意味が通る。ただしあの本も、「泣く影の映りけるを見て」という下に「女」という言葉がなくてはどうか。「立ち聞きても」は、あの本に「聞きつけて」とあるのがよい。「水口に我や」云々の歌の初め二句の注釈は、どれも少し違っている。これは、きっと私の泣く姿もともに映って見えているだろう、と言っているのである。このように見なければ下の句に合わない。「私の姿が見えているのだろうか」と言うのとは違う。「ならわねば」云々のこの歌は、言葉が足りなくて意味の通らない歌である。「とかくなまめくあいだに、かのいたる蛍を」云々。これでは、なまめいているのは「いたる(源至)」ではなく別人と聞こえてどうか。「とかくなまめきつつ、蛍をとりて」などとあるべきである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つうまのはなむけせんとて、人を待ちけるに云云、人をと云うこと、あまれり、真字本には無し。但し上なる、物へいく人にと云う詞の、無き本も有り。それは人を待ちけるにてよろし。又男、「行く水と過ぐるよわいと云云、この歌この条にかなわず、真名本に無きぞ善き。又男女の忍びありきしける云云、この詞も、このくだりにかなわず。人知れぬ物思いけり、この詞いたずらなり。むかし心つきて云云、心つきて、聞えず。真名本に、栄而と有るも心得ず。田からんとては、男の事にて、この男の田からむとてあるを見て、と云う意なり。かくてものいたくやみて云云、この事、上の詞歌に似つかず、別儀なりしが、詞ども落ちて、乱れたるなるべし。昔年ごろ音づれざりける女、昔の下に、男のと云う事無くては、足らず。又よさりこの有りつる云云の上にも、その男、或いはその人など有るべきことなり。「これやこの我に云云、この歌、おうみをと云うこと、聞えず。近江に云い掛けたりとせんも、しいごとなり。もし然らば、上に近江の国の事無くては、ととのわず。又下の句も、これやこのと云えるにかなわず。昔よごころつける女云云、これは、女にてはかなわず、真名本に、嫗女と有るぞよろしき。仮字の乱れたるより、斯かるまぎれもおのずからなり。
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『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つこの蛍のともす火にや云云、ここは真名本に、この蛍のともしびにや似むと思いて、消ちなんとすとて、男詠める、と有るぞよろしき。但し上に、車なりける人と有れば、下なる男と云う事は、無くてあらまほし。もし又、ともし火にや似んと思えるを、女の心とせば、思いければ、などこそ有るべけれ、思いてと云いては、かなわず。「出でていなば誰か別れの云云、この歌、上と下と縁無し。又はしの詞にもいとうとし。真名本に、初めの句、いといてはと有るも聞えず。又真名本に、この歌の次に、女返に付けて、「いずくまでおくりは云云、この歌もおさなし。なおおもいてこそ、聞えず。真字本に、なおざりにとあるにて聞ゆ。今の翁まさにしなんやは、為なんやにて、然るすける物思いをば為なんやの意なり。死なんやにては、からうじて息出でたり、と云うにかなわず。「いでていなばかぎりなるべし云云、古えの人も、かばかり拙き歌詠みけるにや。これは上に云うべかりけるを、おとしたるなり。なおはたえ在らざりける中なりければ、この詞あまりて聞ゆ。真名本には、さりとてはた、いかでは、え在らざりける中なりければと有り。心にとどめてよますはらに云云、聞えぬ事なり、真字本は聞ゆ。
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『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つ初めのくだり、男のきたりける云云、男の、のの文字ひがことなり。真名本に無きぞ宜しき。男のとては、云云して歌を書きてやる事、女のしわざになるなり。月やあらぬちょう歌の条、ほいにはあらで、この詞聞えず。真字本に、穂にはと有るも、心ゆかず。穂には出でずなどこそ云え、ほにはあらでなどは、聞きつかぬ心地す、猶もじの誤りなどにや。うつの山のところ、わが入らむとする道は、いと暗う細きに、つたかえではしげりて云云、かえではのはは、てにおはなり。上の道はのはと重ねて、こうように云う、一つの格なり。「秋はきぬ紅葉はやどに降りしきぬ道ふみ分けてとう人は無し、など、三つも重ねて云える、この類多し。真名本に葉と書けるによりて、然か心得ては、いとつたなき文になるなり。「君がためたおれる枝は云云。この歌は、君にわが心ざしの深きにかないて、春ながらも、秋のごとく色ふかく染めたり、と云う意なるべし。注どもに、秋と云う言になずみて、女の心のうつろう事に心得たるはいかが。さてはかえしの歌めずらしげ無し。又女の心を疑うべきよしも、上の詞に見えず。「いでていなば心かろしと云云。
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『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つその故は、待つにと云うまでは、ただ一度のさまを云える文なるに、たびたび過ぎと続けて云いては、俄なり。さればこは、よろこびて待つに来ず、さること度々なりければ、などように有るべき所なり。むかし男かたいなかに住みけり。真名本に、昔男女と有るぞ善き。男とのみにては、次なる男と云う言も余り、また待ちわびたりけるにと云うも、上に女と云う言無くては、聞えず。「梓弓真弓つき弓云云、この歌、初めの二句、いかなる意にか、さらに聞えず。又真名本に、神言忠令見と書けるは、もとより借字ながら、いとつたなき書きざまなり。下の句は、昔わがうるわしみせしがごとく、今の男に、うるわしみせよと云えるなり。「見るめなきわが身を云云、この歌のこと、古今集の遠鏡に云えり。さてこの歌をここに出だせるは、下の句、はしの詞にかなわず聞ゆ。又色このみなる女と云うことも、ここに有るべき詞に有らず。これらによりて思うに、これは、「秋の野にちょう歌の次に、多く詞落ちて、もと上とは別条にぞ有りけむ。え得ずなりにける事、わびたりける人の云云、真名本には、わびを慙と書けり、共にかなえりとも聞えず。
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『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つ女はを、嫗はおの仮字にて、分かるるなり。又つけると云う詞もいかが。真名本に、世営と書けり。よこころあると訓むべし。色好む心の有る老女なり。あいえてしも、同じ本に、あい見てしと有るよろし。その次の詞も、かの本よろし。出でたつけしきは、男のなさけ有りて、嫗のがりゆかむと思いて、出でたつなり。いずくなりけん、けんと云う詞いかが。いずくなるらんと、など有るべきにや。もし又けんをたすけて云わば、物語の地の詞として、いずくにての事なりけんと見るべし。昔男いせの国なりける女云云、真字本に、女をと有るよろし。むかしそこには云云、真字本に、昔男と有り。むかし男、いせの国にいていきて云云、こは本は、いせの国なる女に、京にいていきて云云、と有りしが、二文字の重なれるによりて、京にと云う事の、後に落ちたるなり。次なる歌ども、必ず伊勢なる女とこそ聞えたれ。「いわまより云云、この歌の四の句、解き得たる人無し。しおいしおみちは、とまれかくまれと云う意なるを、海の詞にて云えるのみなり。今はともかくもあれ、末ついにはかい有りて、逢う事も有らんと云えるなり。きょうの御わざを題にての、きょうのは、その日のと有るべき言なり。
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『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つかえし「下ひもの云云、又かえし「恋しとは云云、この又のかえし、かなえりとも聞えず。真名本には、この二首は、上とは別条にて、「恋しとは云云、かえし「下ひもの云云と有り、よろし。今はさること似げ無く云云、誰とも無くて、斯く云えること聞えず。真名本には、なま翁の今は云云と有り、よろし。されど歌の上に、中将なりける翁と有るは悪ろし、かの翁とこそ云うべけれ。又は上を、中将なりける翁今はさること云云と云いて、歌の所には、何とも云わでも有りなん。大鷹のたかがいを、真名本に、大方之鷹飼と有るは、ひがことなり。西宮記にも、鷹飼王卿、大鷹飼者、地摺の猟衣、綺の袴、玉帯を著く、鷂飼者云云と有る、ここによくかなえるをや。昔みかど住吉に云云、この条すべて詞足らず。他条の例に似ず。「我見てもの歌も、誰が歌とも、わきまえがたく、大神の現形も俄なり。他条の例にならいて云わば、昔男、みかどの住吉に行幸し給いける、御供につかうまつりて詠める、「我見ても云云、と詠めりければ、大神云云、などこそ有るべけれ。「むつまじと云云の歌は、何事ぞや。二の句を、君は知らずやとすれば、大かた聞ゆるようには有れど、猶いとつたなし。
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