名将言行録 / 『名将言行録』蒲生氏郷 評・逸話は人物の計器
秀吉に毒殺されたなど云ふことは、嘘である。恐らく、(限あれば)の歌があるために、生じたデマである。しかし、信長取り立ての大名だし、大志雄略があるのだから秀吉に多少烟たがられたことは、たしかである。個人的武勇に秀れ、いつも陣頭に立つて奮戰したと云ふ點では、黑田長政などと同じである。しかし、才幹と云ひ、大志と云ひ、また文事と云ひ、長政などよりは、はるかに秀れてゐる。舊主の子孫に對して、その刀を持つて陪從したと云ふのも、優にやさしき振舞だ。わづか、四十で死んだのは、いかにも惜しい。もつと生きてゐたならば、關ケ原の役などでは、天下の形勢にも影響のある一大勢力であつたゞらう。 家臣西村と角力を取る話は、可なり知られてゐる美談であるが、(十萬石吳れたら一人子を捨てろ)と云ふ言葉を聽いて、急に不興になる點など、氏鄕などの爲人を示して甚だ面白い。 その人の美談、逸話は、その人物を示す、計器そのものである。
新字:秀吉に毒殺されたなど云ふことは、嘘である。恐らく、(限あれば)の歌があるために、生じたデマである。しかし、信長取り立ての大名だし、大志雄略があるのだから秀吉に多少烟たがられたことは、たしかである。個人的武勇に秀れ、いつも陣頭に立つて奮戦したと云ふ点では、黒田長政などと同じである。しかし、才幹と云ひ、大志と云ひ、また文事と云ひ、長政などよりは、はるかに秀れてゐる。旧主の子孫に対して、その刀を持つて陪従したと云ふのも、優にやさしき振舞だ。わづか、四十で死んだのは、いかにも惜しい。もつと生きてゐたならば、関ケ原の役などでは、天下の形勢にも影響のある一大勢力であつたゞらう。 家臣西村と角力を取る話は、可なり知られてゐる美談であるが、(十万石呉れたら一人子を捨てろ)と云ふ言葉を聴いて、急に不興になる点など、氏郷などの為人を示して甚だ面白い。 その人の美談、逸話は、その人物を示す、計器そのものである。
書き下し
秀吉に毒殺されたなど云ふことは、嘘である。恐らく、(限あれば)の歌があるために、生じたデマである。しかし、信長取り立ての大名だし、大志雄略があるのだから秀吉に多少烟たがられたことは、たしかである。個人的武勇に秀れ、いつも陣頭に立つて奮戰したと云ふ點では、黑田長政などと同じである。しかし、才幹と云ひ、大志と云ひ、また文事と云ひ、長政などよりは、はるかに秀れてゐる。舊主の子孫に對して、その刀を持つて陪從したと云ふのも、優にやさしき振舞だ。わづか、四十で死んだのは、いかにも惜しい。もつと生きてゐたならば、關ケ原の役などでは、天下の形勢にも影響のある一大勢力であつたゞらう。 家臣西村と角力を取る話は、可なり知られてゐる美談であるが、(十萬石吳れたら一人子を捨てろ)と云ふ言葉を聽いて、急に不興になる點など、氏鄕などの爲人を示して甚だ面白い。 その人の美談、逸話は、その人物を示す、計器そのものである。
現代語訳
秀吉に毒殺されたなどということは、嘘である。おそらく、(限りあれば)の歌があるために、生じたデマである。しかし、信長取り立ての大名であり、大志雄略があるのだから、秀吉に多少煙たがられたことは、たしかである。個人的武勇にすぐれ、いつも陣頭に立って奮戦したという点では、黒田長政などと同じである。しかし、才幹といい、大志といい、また文事といい、長政などよりは、はるかにすぐれている。旧主の子孫に対して、その刀を持って陪従したというのも、優にやさしい振る舞いだ。わずか四十で死んだのは、いかにも惜しい。もっと生きていたならば、関ヶ原の役などでは、天下の形勢にも影響のある一大勢力であっただろう。 家臣西村と相撲を取る話は、かなり知られている美談であるが、(十万石くれたら一人子を捨てる)という言葉を聞いて、急に不興になる点など、氏郷などの人となりを示して甚だ面白い。 その人の美談、逸話は、その人物を示す、計器そのものである。
解説

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