智囊 / 剖疑・王商・王曾
漢成帝建始中,關內大雨四十餘日。京師民無故相驚,言「大水至」,百姓奔走相蹂躪,老弱號呼,長安中大亂。大將軍王鳳以為太后與上及後宮可御船,令吏民上城以避水。群臣皆從鳳議,右將軍王商獨曰:「自古無道之國,水猶不冒城郭,今何因當有大水一日暴至?此必訛言也。不宜令上城,重驚百姓。」上乃止。有頃稍定,問之,果訛言,於是美商之固守。天聖中嘗大雨,傳言汴口決,水且大至。都人恐,欲東奔。帝以問王曾,曾曰:「河決,奏未至,必訛言耳。不足慮。」已而果然。〔馮述評〕嘉靖間,東南倭亂,蘇城戒嚴。忽傳寇從西來,已過滸墅。太守率眾登城,急令閉門。鄉民避寇者萬數,騰踴門外,號呼震天。任同知環憤然曰:「未見寇而先棄良民,謂牧守何!有事,環請當之!」乃分遣縣僚洞開六門,納百姓,而自仗劍帥兵,坐接官亭以遏西路。鄉民畢入,良久,而倭始至,所全活甚眾。吳民至今屍祝之。
新字:漢成帝建始中,関内大雨四十余日。京師民無故相驚,言「大水至」,百姓奔走相蹂躪,老弱号呼,長安中大乱。大将軍王鳳以為太后与上及後宮可御船,令吏民上城以避水。群臣皆従鳳議,右将軍王商独曰:「自古無道之国,水猶不冒城郭,今何因当有大水一日暴至?此必訛言也。不宜令上城,重驚百姓。」上乃止。有頃稍定,問之,果訛言,於是美商之固守。天聖中嘗大雨,伝言汴口決,水且大至。都人恐,欲東奔。帝以問王曽,曽曰:「河決,奏未至,必訛言耳。不足慮。」已而果然。〔馮述評〕嘉靖間,東南倭乱,蘇城戒厳。忽伝寇従西来,已過滸墅。太守率衆登城,急令閉門。郷民避寇者万数,騰踴門外,号呼震天。任同知環憤然曰:「未見寇而先棄良民,謂牧守何!有事,環請当之!」乃分遣県僚洞開六門,納百姓,而自仗剣帥兵,坐接官亭以遏西路。郷民畢入,良久,而倭始至,所全活甚衆。呉民至今屍祝之。
書き下し
漢の成帝の建始中、関内に大雨ふること四十余日。京師の民、故無くして相驚き、「大水至る」と言う。百姓奔走して相蹂躙し、老弱号呼し、長安中大いに乱る。大将軍王鳳、以為えらく、太后と上及び後宮は船に御すべし、と。吏民をして城に上りて以て水を避けしめんとす。群臣、皆な鳳の議に従う。右将軍王商のみ独り曰く、「古より無道の国すら、水、猶お城郭を冒さず。今、何に因りて当に大水の一日にして暴かに至る有らんや。此れ必ず訛言なり。宜しく城に上らしむべからず。重ねて百姓を驚かさん」と。上、乃ち止む。有頃にして稍や定まる。之を問えば、果たして訛言なり。是に於いて商の固く守れるを美む。天聖中、嘗て大雨あり、「汴口決し、水且に大いに至らんとす」と伝言す。都人恐れ、東に奔らんと欲す。帝、以て王曾に問う。曾曰く、「河決すれば、奏、未だ至らず。必ず訛言のみ。慮るに足らず」と。已にして果たして然り。〔馮述評〕嘉靖の間、東南に倭乱あり、蘇城、戒厳す。忽ち伝う、寇、西より来たり、已に滸墅を過ぐ、と。太守、衆を率いて城に登り、急ぎ門を閉ざさしむ。郷民の寇を避くる者万を数え、門外に騰踴し、号呼すること天を震わす。任同知環、憤然として曰く、「未だ寇を見ずして先ず良民を棄つ。牧守を何と謂わん。事有らば、環、請う、之に当たらん」と。乃ち県僚を分遣して六門を洞開し、百姓を納れ、自ら剣を仗えて兵を帥い、接官亭に坐して以て西路を遏む。郷民、畢く入る。良久しくして、倭、始めて至る。全活する所甚だ衆し。呉民、今に至るまで之を屍祝す。
現代語訳
漢の成帝の建始年間、関内に四十日あまり大雨が降った。都の民は理由もなく互いに驚き、「大水が来る」と言った。人々は走り回って踏みつけ合い、老人や子どもは泣き叫び、長安中が大混乱になった。大将軍の王鳳は、太后と天子および後宮は船に乗り、役人や民は城壁に上って水を避けさせるべきだと考えた。群臣はみな王鳳の意見に従った。右将軍の王商だけが言った。「昔から道に外れた国でさえ、水が城郭を覆ったことはありません。今、どうして急に一日で大水が来るでしょう。これは必ずデマです。城に上らせてはなりません。かえって民をさらに驚かせます」。天子は取りやめた。しばらくして次第に落ち着き、調べると、果たしてデマだった。そこで王商がかたく守ったことをほめた。天聖年間にも、大雨のとき「汴口が決壊し、大水がやって来る」と伝わった。都の人は恐れ、東に逃げようとした。帝が王曾に尋ねると、王曾は言った。「黄河が決壊すれば、報告がまだ届いていないのはおかしい。必ずデマです。心配には及びません」。やがてそのとおりだった。〔馮夢龍の評〕嘉靖年間、東南で倭寇が起き、蘇州城は戒厳した。突然、敵が西から来て、すでに滸墅を過ぎたと伝わった。太守は人々を率いて城に登り、急いで門を閉めさせた。敵を避ける郷民は万を数え、門の外で跳ね回り、泣き叫ぶ声は天を震わせた。同知の任環は憤然として言った。「まだ敵を見ないうちに先に良民を見捨てるとは、長官と呼べようか。事が起これば、私が責任を取る」。そこで県の官吏を分けて六つの門を開け放ち、民を受け入れ、自分は剣を手に兵を率い、接官亭に座って西の道をふさいだ。郷民はすべて入った。しばらくして、倭寇がやっと到着した。助かった者は非常に多かった。呉の民は今に至るまで任環を祭っている。
解説
この章句が説くこと
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