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玉勝間 / 十一の巻 足ことを知ると云ふ事

たることを知ると云ふは、もろこし人の常に、いみしきわざにすめる事なるを、これまことにいと善き事にて、しか思ひとらば、程程につけて、誰れも誰れも、心はいと安かりぬべきわざにぞ有ける。然はあれども、高きみじかき、ほどほどに望みねがふ事の盡きせぬぞ、世の人の眞情にて、今は足りぬと覺ゆる世は無きものなるを、世には足こと知れるさまに云ひて、さるかほする人の多かるは、例のからやうの作り事にこそは有れ。まことにきよく然思ひとれる人は、千萬の中にも、有がたかるべきわざにこそ。

新字:たることを知ると云ふは、もろこし人の常に、いみしきわざにすめる事なるを、これまことにいと善き事にて、しか思ひとらば、程程につけて、誰れも誰れも、心はいと安かりぬべきわざにぞ有ける。然はあれども、高きみじかき、ほどほどに望みねがふ事の尽きせぬぞ、世の人の真情にて、今は足りぬと覚ゆる世は無きものなるを、世には足こと知れるさまに云ひて、さるかほする人の多かるは、例のからやうの作り事にこそは有れ。まことにきよく然思ひとれる人は、千万の中にも、有がたかるべきわざにこそ。

書き下し

たることを知ると云うは、もろこし人の常に、いみじきわざにすめる事なるを、これまことにいと善き事にて、しか思いとらば、程々につけて、誰も誰も、心はいと安かりぬべきわざにぞ有りける。然はあれども、高きみじかき、ほどほどに望みねがう事の尽きせぬぞ、世の人の真情にて、今は足りぬと覚ゆる世は無きものなるを、世には足ること知れるさまに云いて、さるかおする人の多かるは、例のからようの作り事にこそは有れ。まことにきよく然思いとれる人は、千万の中にも、有りがたかるべきわざにこそ。

現代語訳

足ることを知るというのは、中国の人が常に立派なこととしているようだが、これは本当にたいへんよいことで、そう悟ることができれば、身分に応じて、誰でも心はたいへん安らかになるはずである。そうではあるが、身分の高い者も低い者も、それぞれに望み願うことが尽きないのが世の人の本当の心であって、今はもう足りたと思える時はないものなのに、世間には足ることを知っているように言って、そういう顔をする人が多いのは、例の中国風の作り事である。本当にきっぱりとそう悟っている人は、千万人の中にもめったにいないであろう。

解説

『老子』の「足るを知る者は富む」に代表される、中国の知足の教えについての宣長の見方である。宣長はまず、足ることを知れば誰でも心安らかになれるのだから、それ自体はまことによいことだと認める。しかし、身分の上下を問わず、望みが尽きないのが人の真情であり、もう十分だと思える時などない。それなのに足るを知ったような顔をする人が多いのは、例の漢意による作り事だと言う。宣長は、欲を持つことや悲しみ嘆くことを人の自然な心として認め、それを理屈で抑えつけて聖人ぶることを偽りとして退けた。物のあわれを説いた宣長の人間観がここにも表れている。立派な教えを掲げることと、本当にそうなれることの違いを見据えた、率直な言葉である。

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