玉勝間 / 三の巻 富貴を願はざるを善き事にする論ひ
世世の儒者、身のまづしく賤きをうれへず、とみ榮えをねがはず、喜ばざるを、善き事にすれども、そは人のまことの情にあらず、多くは名をむさぼる、例のいつはりなり。まれまれにさる心ならむもの有とも、そは世のひが者にこそあれ、なにの善き事ならん。ことわりならぬ振舞ひをして、あながちに願はむこそは、惡しからめ。ほどほどにつとむべきわざを、いそしくつとめて、なりのぼり、富さかえむこそ、父母にも先祖にも、孝行ならめ。身衰へ家貧しからむは、うへ無き不孝にこそ有けれ。唯だおのがいさぎよき名をむさぼるあまりに、まことの孝を忘るるも、又もろこし人の常なりかし。
新字:世世の儒者、身のまづしく賤きをうれへず、とみ栄えをねがはず、喜ばざるを、善き事にすれども、そは人のまことの情にあらず、多くは名をむさぼる、例のいつはりなり。まれまれにさる心ならむもの有とも、そは世のひが者にこそあれ、なにの善き事ならん。ことわりならぬ振舞ひをして、あながちに願はむこそは、悪しからめ。ほどほどにつとむべきわざを、いそしくつとめて、なりのぼり、富さかえむこそ、父母にも先祖にも、孝行ならめ。身衰へ家貧しからむは、うへ無き不孝にこそ有けれ。唯だおのがいさぎよき名をむさぼるあまりに、まことの孝を忘るるも、又もろこし人の常なりかし。
書き下し
世世の儒者、身のまずしく賤しきをうれえず、とみ栄えをねがわず、喜ばざるを、善き事にすれども、そは人のまことの情にあらず、多くは名をむさぼる、例のいつわりなり。まれまれにさる心ならむもの有りとも、そは世のひが者にこそあれ、なにの善き事ならん。ことわりならぬ振舞いをして、あながちに願わむこそは、悪しからめ。ほどほどにつとむべきわざを、いそしくつとめて、なりのぼり、富さかえむこそ、父母にも先祖にも、孝行ならめ。身衰え家貧しからむは、うえ無き不孝にこそ有りけれ。唯だおのがいさぎよき名をむさぼるあまりに、まことの孝を忘るるも、又もろこし人の常なりかし。
現代語訳
代々の儒者は、身の貧しく賤しいことを憂えず、富み栄えることを願わず、喜ばないことを善いこととするが、それは人の本当の情ではない。多くは名声をむさぼる、いつもの偽りである。まれにそういう心の者がいたとしても、それは世のひねくれ者であって、何の善いことがあろうか。道理に合わない振る舞いをして、無理に願うのこそ悪いのであろう。身の程に応じて努めるべき仕事を、せっせと努めて出世し、富み栄えることこそ、父母にも先祖にも孝行であろう。身が衰え、家が貧しくなるのは、この上ない不孝である。ただ自分の潔い名声をむさぼるあまりに、本当の孝を忘れるのも、また中国の人の常である。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十四の巻 孟子孟子に、不孝に三有り、後無きを大と為すと云えり。然る時は、後あるが孝なること知るべし。もし後あるが孝ならば、身を富貴にせむこそ大孝ならめ。然るを、儒者の富貴を願わざるは、ただおのが身を潔くせむとして、親を思わざるなり。これ又不孝と云うべし。
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『玉勝間』三の巻 から人のおやのおもひに身をやつす事もろこしの国の、世世の物知り人どもの、親の喪に、身のいみしくやつれたるを、孝心ふかき事にして、しるしたるがあまたある中には、まことに心のかなしさは、いとさばかりも有らざりけむを、食物をいたくへらしなどして、痩せさらぼいて、ことさらに顔かたちをやつして、いみしげにうわべを見せたるが多かりげに見ゆるは、例のいといとうるさきわざなるを、いみしき事に褒めたるも又おこなり。失せにし親を、まことに思う心深くは、おのが身をも、さばかりやつすべき物かは、身のやつれに、病なども起りて、もしはからず、なくなりなどもしたらむには、孝ある子と云うべしやは、たとい然までには至らずとも、然かいみしくやつれたらむをば、苔の下にも、親はさこそ心ぐるしく思わめ、いかでかうれしとは見む。さる親の心をば思わで、唯だ世の人目をのみつくろいて、名をむさぼるは、何のよき事ならむ。すべて孝行も何わざも、世にけやけきふるまいをして、いみしき事に思わするは、かの国人のならいにぞ有りける。
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『玉勝間』十二の巻 金銀ほしからぬかほする事金銀欲しからずと云うは、例の漢ようの偽りにぞ有りける。学問する人など、好書をせちに得まほしがる物から、金銀は欲しからぬ顔するにて、その偽りはあらわなるをや。いまの世よろずの物、金銀をだに出せば、心にまかせて得らるる物を、好書ほしからむには、などか金銀ほしからざらむ。然は有れども、憚る事無くむさぼる世のならいにくらぶれば偽りながらも、さる類いは、なおはるかにまさりてぞ有るべき。
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『玉勝間』二の巻 儒者名をみだる事皇国は、物のありさまは、古とかわりきぬる事も、名は、物のうつり行く、その時時のさまには従わずして、今の世とても万になお古のを守り給うなるは、いともいとも有りがたく、孔丘が心もていわば、名のいと正しきにこそ有りけれ。さるをかえりて正しからずとしも云うは、何につけても、あながちに皇国を云いおとさむとする心のみ進めるからに、そのひがことなる事をも、われながら覚えざるなめり。
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『玉勝間』十一の巻 足ことを知ると云ふ事たることを知ると云うは、もろこし人の常に、いみじきわざにすめる事なるを、これまことにいと善き事にて、しか思いとらば、程々につけて、誰も誰も、心はいと安かりぬべきわざにぞ有りける。然はあれども、高きみじかき、ほどほどに望みねがう事の尽きせぬぞ、世の人の真情にて、今は足りぬと覚ゆる世は無きものなるを、世には足ること知れるさまに云いて、さるかおする人の多かるは、例のからようの作り事にこそは有れ。まことにきよく然思いとれる人は、千万の中にも、有りがたかるべきわざにこそ。
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『論語と算盤』仁義と富貴・孔夫子の貨殖富貴観この言葉はいかにも言裡に富貴を軽んじた所があるようにも思われるが、実は側面から説かれたもので、仔細に考えて見れば、富貴を賤しんだところは一つもない。その主旨は富貴に淫するものを誡められたまでで、これをもって直ちに孔子は富貴を厭悪したとするは、誤謬もまた甚だしと言わねばならぬ。孔子の言わんと欲する所は、道理を持った富貴でなければ、むしろ貧賤の方がよいが、もし正しい道理を踏んで得たる富貴ならばあえて差支えないとの意である。して見れば富貴を賤しみ貧賤を推称した所はさらにないではないか。この句に対して正当の解釈を下さんとならば、よろしく「道を以てせずして之を得れば」という所によく注意することが肝要である。
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