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玉勝間 / 十一の巻 仮字のさだ

源氏物語梅枝卷に、よろづの事、昔にはおとりざまに淺くなり行く世の末なれど、かんなのみなむ、今の世は、いときはなく成りたる。古きあとは、定まれるやうには有れど、ひろき心ゆたかならず、一すぢに通ひてなむ有ける。たへにおかしき事は、とよりてこそ、書いづる人人有けれと云へり。此ノかんなと云へるは、いろは假字の事なり。此かなは、空海ほうしの作れりと云ふを、萬の事、始めはうひうひしきを思ふに、これも、出來つる始めの程は、唯だ用ふるに便りよきかたをのみ事とはして、その書ざまの善き惡しきを云ふ事などまでは及ばざりけんを、やうやうに世にひろく書きならひて、年をふるままに、書きままの善さ惡しさをも、さだする事にはなれりけむを、源氏物語作りし頃は、此假字出來てまだいとしも遠からぬ程なりければ、げにやうやうにおかしくたへに書きいづる人の出でくべきころほひなり。

新字:源氏物語梅枝巻に、よろづの事、昔にはおとりざまに浅くなり行く世の末なれど、かんなのみなむ、今の世は、いときはなく成りたる。古きあとは、定まれるやうには有れど、ひろき心ゆたかならず、一すぢに通ひてなむ有ける。たへにおかしき事は、とよりてこそ、書いづる人人有けれと云へり。此ノかんなと云へるは、いろは仮字の事なり。此かなは、空海ほうしの作れりと云ふを、万の事、始めはうひうひしきを思ふに、これも、出来つる始めの程は、唯だ用ふるに便りよきかたをのみ事とはして、その書ざまの善き悪しきを云ふ事などまでは及ばざりけんを、やうやうに世にひろく書きならひて、年をふるままに、書きままの善さ悪しさをも、さだする事にはなれりけむを、源氏物語作りし頃は、此仮字出来てまだいとしも遠からぬ程なりければ、げにやうやうにおかしくたへに書きいづる人の出でくべきころほひなり。

書き下し

源氏物語梅枝の巻に、よろずの事、昔にはおとりざまに浅くなり行く世の末なれど、かんなのみなむ、今の世は、いときわなく成りたる。古きあとは、定まれるようには有れど、ひろき心ゆたかならず、一すじに通いてなむ有りける。たえにおかしき事は、とよりてこそ、書きいずる人々有りけれと云えり。このかんなと云えるは、いろは仮字の事なり。このかなは、空海ほうしの作れりと云うを、万の事、始めはういういしきを思うに、これも、出で来つる始めの程は、ただ用うるに便りよきかたをのみ事とはして、その書きざまの善き悪しきを云う事などまでは及ばざりけんを、ようやく世にひろく書きならいて、年をふるままに、書きままの善さ悪しさをも、さだする事にはなれりけむを、源氏物語作りし頃は、この仮字出で来てまだいとしも遠からぬ程なりければ、げにようやく、おかしくたえに書きいずる人の出で来べきころおいなり。

現代語訳

『源氏物語』梅枝の巻に、「何事も昔に比べて劣ったさまに浅くなってゆく末の世であるが、仮名だけは、今の世はこの上なく優れたものになった。古い筆跡は、決まった型があるようではあるが、心の広さやゆたかさがなく、一筋に同じようであった。見事に趣深く書くことは、後になってから書き出す人々が現れたのである」と言っている。この「かんな」というのは、いろは仮名のことである。この仮名は空海法師が作ったと言うが、何事も始めは未熟であることを思うと、これも出来た初めのうちは、ただ用いるのに便利なことだけを主にして、その書きぶりの善し悪しを言うことなどまでは及ばなかったのであろう。それが次第に世に広く書き慣れて、年を経るにつれて書きぶりの善し悪しをも論じるようになったのであろう。『源氏物語』が作られた頃は、この仮名が出来てまだそれほど遠くない時期であったから、なるほど次第に趣深く見事に書き出す人が出て来るはずの頃合いである。

解説

『源氏物語』梅枝の巻で光源氏が語る「何事も昔に劣る末の世だが、仮名だけは今の世が優れている」という言葉を手がかりに、仮名の書の成熟を考えた段である。宣長は、仮名はできた当初は使うのに便利なことだけが大事で、書きぶりの美しさを論じるまでには至らず、広く書き慣れられるうちに善し悪しを論じる段階に進んだのだろうと推し量る。紫式部の時代は、ちょうど仮名の美が花開く頃合いであったというのである。いろはを空海の作とするのは古くからの伝えで、宣長もそれを引いているが、物事は始めは素朴で、使われるうちに磨かれるという見方が議論の軸になっている。『源氏物語玉の小櫛』を著した宣長らしく、物語の一節から文化の歴史を読み取った一段である。

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