玉勝間 / 十一の巻 をこ絵
今昔物語に、今はむかし、ひえの山の無動寺に、義清阿闍梨と云ひし僧、繪をこのみてをこ繪の上手なり。筆はかなくたてたるやうなれども唯だ一筆に、書きたるに心地のえならず見えて、をかしき事かぎり無し。
新字:今昔物語に、今はむかし、ひえの山の無動寺に、義清阿闍梨と云ひし僧、絵をこのみてをこ絵の上手なり。筆はかなくたてたるやうなれども唯だ一筆に、書きたるに心地のえならず見えて、をかしき事かぎり無し。
書き下し
今昔物語に、今はむかし、ひえの山の無動寺に、義清阿闍梨と云いし僧、絵をこのみておこ絵の上手なり。筆はかなくたてたるようなれどもただ一筆に、書きたるに心地のえならず見えて、おかしき事かぎり無し。
現代語訳
『今昔物語集』に、今は昔、比叡山の無動寺に義清阿闍梨という僧がいて、絵を好み、おこ絵(戯れ絵)の名手であった。筆はあっさりと立てたように見えるが、ただ一筆で描いたものが、何とも言えずよい感じに見えて、面白いことこの上ない、とある。
解説
平安時代の「おこ絵」、すなわち滑稽な戯画の名手について『今昔物語集』から引いた短い段である。比叡山無動寺の義清阿闍梨は、さらりと一筆で描くだけなのに、何とも言えぬ味わいがあって面白かったという。おこ絵は、鳥獣人物戯画に代表されるような軽妙な戯れ絵で、のちの鳥羽絵や漫画の源流とも言われる。宣長は題に「をこ繪」と掲げ、この言葉が平安の頃から使われていたことを示している。僧侶が戯画の上手として名を残しているのも興味深い。念入りに描き込むことではなく、一筆の軽さの中に人を楽しませる味わいがあるという評は、芸の奥深さを言い当てている。宣長の関心が、古語や制度だけでなく、昔の人の笑いにまで及んでいたことがうかがえる。
関連する章句
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『玉勝間』十一の巻 おそくつの絵古今著聞集に、ふるき上手どものかきて候、おそくつの絵などを御覧も候え云云とあるは、今の俗に枕絵と云う物のことと聞こえたり。もろこしには春画と云えり。
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『玉勝間』十四の巻 またおのれ、絵の事はさらに知らねば、とかく云うべきにあらざるに似たれども、万ずの事おのが善き悪しきはえ知らで、かたわらよりはよく見ゆる物なり、もろもろの芸などもそのでうにて、その道の人は、なかなかにえ知らで、かえりて他より善き悪しきさまのよく見ゆる事あり。絵もさる心ばえあれば、今おのが思うすじを云うなり。まずやまともろこしの古えより、代々の絵の事は、あまたも見あつめず、委しく知らねば、さしおきて、ただ今の世に常に見およぶ処をもて云わん。そはまず、墨絵、うすざいしき、ごくざいしきなど、さまざま有る中に、墨絵と云うは、ただ墨をべたべたと書きて、筆数すくなく、万ずをことそぎて、かろがろと書きて、その物と見ゆる、こはただ筆の力いきおいを見せたる物なれば、至りて上手の書けるは、げにこうも書くべしと覚えて、見所あるも有れど、おしなべての絵師の書けるは、見どころ無く心づきなき物なり。さるを世の人、ただこの墨絵をことにいみじき事にしてめずるは、世のならいに従う心にて、まことには見どころ無き物なり。近き世に茶の湯と云うわざを好むともがらなど、殊にこの墨絵をのみめでて、さいしき絵はすべてとらず。
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『玉勝間』五の巻 いかでと云ふ言俗言に何とぞしてどうぞなど云うを、物語ぶみ又歌にも、いかでと云うは常なり。然るに大江匡衡、左大臣のために浄妙寺を供養する願文に、我もし向後大位に至り、心事相諧わば、いかでか茲の山脚に、一堂を造らん、云云と有り。漢文にはめずらし。
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