玉勝間 / 五の巻 いかでと云ふ言
俗言に何とぞしてどうぞなど云ふを、物語ぶみ又歌にも、いかでと云ふは常なり。然るに大江匡衡、爲左大臣供養淨妙寺願文に、我若向後至大位、心事相諧者、爭於茲山脚、造一堂、云云と有り。漢文にはめづらし。
新字:俗言に何とぞしてどうぞなど云ふを、物語ぶみ又歌にも、いかでと云ふは常なり。然るに大江匡衡、為左大臣供養浄妙寺願文に、我若向後至大位、心事相諧者、争於茲山脚、造一堂、云云と有り。漢文にはめづらし。
書き下し
俗言に何とぞしてどうぞなど云うを、物語ぶみ又歌にも、いかでと云うは常なり。然るに大江匡衡、左大臣のために浄妙寺を供養する願文に、我もし向後大位に至り、心事相諧わば、いかでか茲の山脚に、一堂を造らん、云云と有り。漢文にはめずらし。
現代語訳
俗語で「何とぞして」「どうぞ」などと言うところを、物語の書や歌で「いかで」と言うのはふつうのことである。ところが大江匡衡の「左大臣(藤原道長)のための浄妙寺供養の願文」に、「我もし今後大位に至り、心と事とがかなうならば、何とかしてこの山のふもとに一堂を造ろう」などとあり、「爭(いかで)」の字を使っている。漢文では珍しい。
解説
「いかで」という和語の用法が、漢文の中に入り込んだ例を拾った段である。「いかで」は物語や歌では「何とかして」という願望を表すのがふつうである。ところが大江匡衡が藤原道長のために書いた浄妙寺供養の願文では、漢字の「爭」を「いかで」の意味で使い、「何とかしてこの山のふもとに一堂を建てたい」と書いている。漢語の「爭」は本来「どうして〜か」という反語で、願望の意味はない。平安の漢文が、日本語の発想に引かれて書かれていたことを示す証拠である。宣長は漢文を外国語として読み、和文とのけじめを重んじた。だからこそ漢文に和語の癖が混じる瞬間に敏感だった。言葉は境目で混ざり合うものであり、その混ざり方が書き手の頭の中を映しているという観察である。
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