玉勝間 / 十一の巻 後の世ははづかしきものなる事
安藤ノ爲章が千年山集といふ物に、契沖の萬葉の注釋をほめて、かの顯昭仙覺がともがらを、此大とこになぞらへば、あたかも駑駘にひとしと云ふべしと云へる、誠にさる事なりかし。そのかみ顯昭などの說に比べては、かの契沖の釋は、加ふべきふし無く、事つきたりとぞ、誰れもおぼえけむを、今又吾〓縣居ノ大人にくらべてみれば、契沖のともがらも又、駑駘にひとしとぞ云ふべかりける。何事もつぎつぎに後の世は、いと恥かしきものにこそ有りけれ。
新字:安藤ノ為章が千年山集といふ物に、契沖の万葉の注釈をほめて、かの顕昭仙覚がともがらを、此大とこになぞらへば、あたかも駑駘にひとしと云ふべしと云へる、誠にさる事なりかし。そのかみ顕昭などの説に比べては、かの契沖の釈は、加ふべきふし無く、事つきたりとぞ、誰れもおぼえけむを、今又吾〓県居ノ大人にくらべてみれば、契沖のともがらも又、駑駘にひとしとぞ云ふべかりける。何事もつぎつぎに後の世は、いと恥かしきものにこそ有りけれ。
書き下し
安藤の為章が千年山集という物に、契沖の万葉の注釈をほめて、かの顕昭仙覚がともがらを、この大とこになぞらえば、あたかも駑駘にひとしと云うべしと云える、誠にさる事なりかし。そのかみ顕昭などの説に比べては、かの契沖の釈は、加うべきふし無く、事つきたりとぞ、誰もおぼえけむを、今また吾〓県居の大人にくらべてみれば、契沖のともがらもまた、駑駘にひとしとぞ云うべかりける。何事もつぎつぎに後の世は、いと恥ずかしきものにこそ有りけれ。
現代語訳
安藤為章の『千年山集』という書に、契沖の『万葉集』の注釈をほめて、「あの顕昭や仙覚の輩を、この大徳(契沖)になぞらえれば、まるで駑馬(のろい馬)に等しいと言うべきだ」と言っているのは、まことにそのとおりである。当時、顕昭などの説に比べれば、契沖の注釈は付け加えるべき点もなく、事は尽くされたと、誰もが思ったであろう。ところが今また、わが師である縣居の大人(賀茂真淵)に比べてみれば、契沖らもまた駑馬に等しいと言うべきであった。何事も、次々と後の世には、たいへん恥ずかしいことになるものである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』二の巻 又この近き年頃となりては、ようように古学のよき事を、世にも知れるともがらあまた出で来て、物よくわきまえたる人は、多く契沖をたっとむめり。そもそも契沖のよき事を知る者ならば、かれよりもわが縣居の大人の、また勝りてよき事は、おのずから知るらんに、猶契沖にしもとどまりて、今一きざみえすすまざるは、いかにぞや。また縣居の大人までは、すすめども、その後の人の説は、猶とらじとするも、同じ事にて、これみな俗にまけ惜しみとか云うすじにて、心ぎたなきわざなるを、必ず学者の心は、多くさるものなりかし、
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『玉勝間』八の巻 今の人の歌文ひがこと多き事近き世の人のは、歌も文も、大かたはよろしと見ゆるにも、猶ひが事の多きぞかし。されど其のたがえるふしを、見知れる人はた世に無ければ、唯だかいなでに、此処かしこえんなる詞を使い、よしめきて、詠みなし書き散らしたるをば、誠に善しと見て、人のもてはやし、ほめたつれば、心をやりて、したり顔すめる、いとかたはら痛く、おこがましくさえぞ思わるる。さるにつけては、斯く云うおのが物する事も、猶いかにひが事有らむと、物よく見知れらむ人の心ぞ、恥しかりける。人のひが事の、よく見え分かるるにつけては、我はよくわきまえたれば、ひが事はせずと、思いほこれど、古えの事の心をさとり知るすじは、限り無きわざにし有れば、此外あらじとは、いとなん定め難きわざなりける。
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『玉勝間』十一の巻 万葉集をよむこころばへ万葉集今の本、文字を誤れる所いと多し、こは近き世の事にはあらで、いと早くより、久しく誤り来ぬるものとぞ見えたる。然るに近き頃は、古学おこりて、むねとこの集を心にかくるともがら、多きが故につぎつぎによき考え出で来て、誤れる字も、ようやくに知られたること多し。されどなお知られざるも多きなり。その心してよむべきなり。むげに聞こえぬところどころなどは、大かた誤字にぞ有りける。さてまたすべて訓も、誤りいと多し。さるはこの集はじめは、訓は無かりしを、やや後に始めて附けたりし。その訓は、いといとおさなくて、えもいわぬひがことのみにして、さらに用い難きものなりしを、中むかしまでさて有りしを、仙覚と云いけるほうし、力を用いて多く訓を改めたる、今の本は、この仙覚が訓にて、もとのに比ぶれば、こよなくまさりてぞ有りける。然れどもなおよからざること多きを、近き世に契沖法師があらためたるにて、またこよなく善くなれり。
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『玉勝間』九の巻 契沖が歌を解けるやう歌の注は、むつかしきわざにて、いささかの云いざまによりて、意も勢いも、いたくたがう事多きを、契沖は、歌を解くこと、上手にて、善くも悪しくも、云える事のすじ、よく通りて、聞こえやすし。然るにおりおり、くだくだしき解きざまの交じれるは、いかにぞや。たとえば遍昭僧正の、天津風の歌の注に、もとより風雲ともに、浮きたる物なれば、久しく吹きとずべき物には有らざるによりて、しばしと云える詞、よくかなえり、と云える類いなり。すべてかの頃などの歌は、詠みぬしの心には、さる事までを思える物にはあらず。然るをかくさまに、こまかに意を添えて解けるたぐいは、思うに、仏ぶみの注釈どもを、見なれたる癖なめり。すべてほとけぶみの注釈と云う物は、深くせむとて、えも云わずくだくだしき意を加えて、こちたく解きなせる物ぞかし。
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『玉勝間』二の巻 ふみども今は得やすくなれる事二三十年あなたまでは、歌まなびする人も、ただ近き世の歌ぶみをのみ学びて、万葉をまなぶ事無く、また神学者と云う物も、ただ漢ざまの理をのみさだして、古のまことのこころを得むことを思わねば、万葉をまなぶ事無くて、すべて万葉は、歌まなびにも、道の学びにも、必ずまずまなばでかなわぬ書なる事を、知れる人無かりき。されば、契沖ほうし、むねとこの集を明らめて、古の意をもかつがつうかがいそめて、はしばし云いおきつれども、歌人も神学者も、このしるべによるべき事を知れる人無かりしかば、おのが若くて、京に在りし頃などまでは、代匠記と云う物の有る事をだに知れる人も、おさおさ無かりければ、その書世にまれにして、いといと得がたく、かの人の書は、百人一首の改観抄だに、得がたかりしを、そのかみおのれ京にて、始めて人に借りて見て、買わばやと思いて、本屋をたずねたりしに、無かりき。板本なるにいかなれば無きぞと問いしかば、ようずる人無き故に、すり出ださずとぞ云えりける。さてとかくして、からくしてぞ得たりける。
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『玉勝間』一の巻 あがたゐのうしは古、学のおやなる事からごころをきよくはなれて、もはら古のこころ詞をたづぬるがくもんは、わが県居の大人よりぞはじまりける。この大人の学の、いまだおこらざりしほどの世の学問は、歌もただ古今集よりこなたにのみとどまりて、万葉などは、ただいと物どおく、心も及ばぬ物として、さらにその歌の善き悪しきを思い、古き近きをわきまえ、またその詞を、今のおのが物としてつかう事などは、すべて思いも及ばざりし事なるを、今はその古言をおのがものとして、万葉ぶりの歌をも詠み出で、古ぶりの文などをさえ、書きうることとなれるは、もはらこのうしのおしえのいさおにぞ有りける。今の人は、ただおのれみづから得たるごと思うめれど、みなこの大人の御蔭によらずと云うこと無し。また古事記・書紀などの、古典をうかがうにも、漢意にまどわされず、まづもはら古言を明らめ、古意によるべきことを、人みな知れるも、このうしの万葉のおしえのみたまにぞ有りける。そもそも斯かるたふとき道を、開らき初められたるいそしみは、世にいみしきものなりかし。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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