言志四録 / 南洲手抄
學、稽之古訓、問、質之師友、人皆知之。學必學之躬、問必問諸心、其有幾人耶。
新字:学、稽之古訓、問、質之師友、人皆知之。学必学之躬、問必問諸心、其有幾人耶。
書き下し
学之を古訓に稽へ、問之を師友に質すは、人皆之を知る。学必ず之を躬に学び、問必ず諸を心に問ふは、其れ幾人有らんか。
現代語訳
学ぶときは古人の教えに照らし、問うときは師や友に確かめる——これは誰もが知っている。だが、学んだことを必ず自分の身で実践し、問うときは必ず自分の心に問いかける——これができる人が、いったい何人いるだろうか。
解説
学問の「外向き」と「内向き」を対比した一条です。古典に照らして学び、師友に尋ねて問う——これは誰もが心得ている、外に向かう学びの作法です。しかし一斎が本当に問うのはその先。学んだことを自分の身で行い、疑問を自分の心に問い返す、内に向かう学びをしている人がどれだけいるか、と。学びは他人や書物から受け取って終わりではなく、自分の実践と内省で完結する。前条の口頭・紙上の学への戒めと一続きです。学びを外部からのインプットで満足しがちな私たちに、内へ折り返す一歩を促します。
この章句が説くこと
学問躬行内省自得
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