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玉勝間 / 十一の巻 皇極経世書と云ふからぶみの説

又辰より元までの八層も、八の數よりどころ無ければ、是も十二層にしても、猶多くいく層積ても、同じ事なるを、八層にしもとぢめたるは、辰日月歲の四ッにならひて、其上、をも又四ッかさねたる物にして、世運會元と云ふは、わたくしに造りたる物にこそあれ、實にさる定まりは有ること無し。又かの十二の數をば、十二支を以て、子に始まり亥に終るなど云へれども、然らば三十の數も、さる事あるべき物なるに、三十には配當る物なきも可笑し、すべて斯かる淺はかなる事どもを以て、いかでか天地の始ノ終リを測る事を得む。いともいともおふけなく、拙なく愚なる事にぞ有ける。いはゆる理學家の說は、大かたかうやうのをかしき事のみぞ多かる。然るをその後の世世のもの知り人どもの、此說をいたく稱て、洞に天地の運化を見明らめたるごと云ひあへるも、又いと愚かなる事ぞかし。すべて佛ぶみの說のごとく、人の目に見ぬうしろの事を云ふは、如何にも云はるる物にて、易きわざなるを、唯だその說の理の、さも有らむと覺ゆるを、人は信ずるならひなれども、人の智もてはかりたる理は、思ひのほかにたがふ事有れば、さらに信みがたし。

新字:又辰より元までの八層も、八の数よりどころ無ければ、是も十二層にしても、猶多くいく層積ても、同じ事なるを、八層にしもとぢめたるは、辰日月歳の四ッにならひて、其上、をも又四ッかさねたる物にして、世運会元と云ふは、わたくしに造りたる物にこそあれ、実にさる定まりは有ること無し。又かの十二の数をば、十二支を以て、子に始まり亥に終るなど云へれども、然らば三十の数も、さる事あるべき物なるに、三十には配当る物なきも可笑し、すべて斯かる浅はかなる事どもを以て、いかでか天地の始ノ終リを測る事を得む。いともいともおふけなく、拙なく愚なる事にぞ有ける。いはゆる理学家の説は、大かたかうやうのをかしき事のみぞ多かる。然るをその後の世世のもの知り人どもの、此説をいたく称て、洞に天地の運化を見明らめたるごと云ひあへるも、又いと愚かなる事ぞかし。すべて仏ぶみの説のごとく、人の目に見ぬうしろの事を云ふは、如何にも云はるる物にて、易きわざなるを、唯だその説の理の、さも有らむと覚ゆるを、人は信ずるならひなれども、人の智もてはかりたる理は、思ひのほかにたがふ事有れば、さらに信みがたし。

書き下し

また辰より元までの八層も、八の数よりどころ無ければ、これも十二層にしても、なお多くいく層積みても、同じ事なるを、八層にしもとじめたるは、辰日月歳の四つにならいて、その上をもまた四つかさねたる物にして、世運会元と云うは、わたくしに造りたる物にこそあれ、実にさる定まりは有ること無し。またかの十二の数をば、十二支を以て、子に始まり亥に終るなど云えれども、然らば三十の数も、さる事あるべき物なるに、三十には配当る物なきもおかし、すべてかかる浅はかなる事どもを以て、いかでか天地の始め終りを測る事を得む。いともいともおおけなく、拙なく愚かなる事にぞ有りける。いわゆる理学家の説は、大かたこうようのおかしき事のみぞ多かる。然るをその後の世々のもの知り人どもの、この説をいたく称えて、洞に天地の運化を見明らめたるごと云いあえるも、またいと愚かなる事ぞかし。すべて仏ぶみの説のごとく、人の目に見ぬうしろの事を云うは、いかにも云わるる物にて、易きわざなるを、ただその説の理の、さも有らむと覚ゆるを、人は信ずるならいなれども、人の智もてはかりたる理は、思いのほかにたがう事有れば、さらに信みがたし。

現代語訳

また辰から元までの八層というのも、八という数に拠り所がないのだから、これも十二層にしても、さらに多く何層積み重ねても同じことであるのに、八層で締めくくったのは、辰・日・月・歳の四つにならって、その上にもまた四つ重ねたものであって、世・運・会・元というのは勝手に造ったものにすぎず、本当にそういう定まりがあるわけではない。またあの十二の数を十二支に当てて、子に始まり亥に終わるなどと言っているが、それならば三十の数にもそういう当てはめがあってしかるべきなのに、三十には割り当てるものがないのもおかしい。すべてこのような浅はかなことで、どうして天地の始めと終わりを測ることができようか。まことに身の程知らずで、拙く愚かなことであった。いわゆる理学家(朱子学者)の説は、だいたいこのようなおかしなことばかりが多い。それなのに、その後の代々の学者たちがこの説をひどく褒めたたえて、天地の運行と変化を見通して明らかにしたかのように言い合っているのも、またたいへん愚かなことである。すべて仏典の説のように、人の目に見えない背後のことを言うのは、どのようにでも言えるもので、たやすいことである。ただその説の理屈がいかにもありそうに思えるのを、人は信じるのが常であるが、人の知恵で推し量った理屈は、思いのほかに外れることがあるから、決して信じがたい。

解説

邵康節批判の続きである。元・会・運・世の八層も、日常の四つの単位の上にもう四つ重ねただけの作り物であり、十二を十二支に当てながら三十には当てるものがないのも筋が通らない、と宣長は畳みかける。そのうえで批判は邵雍一人にとどまらず、この説を天地の運行を見通したものと称えてきた後世の学者たち、さらには理学家一般に向かう。人の目に見えない事柄については、どうにでも言えるから説を立てるのはたやすい。人は理屈がもっともらしく聞こえるとそれを信じてしまうが、人知で測った理屈は思いのほか外れる、というのである。前段の死後についての議論と同じく、宣長は検証できない領域で理を語ることを戒める。もっともらしさと正しさを混同しない戒めである。

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