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玉勝間 / 十一の巻 皇極経世書と云ふからぶみの説

この天地の始終の說も、佛ぶみの說と同じ事にて、人の見る事なきものなれば、そらに理を考へて云はむには、如何にも造り云ふべけれども、そは其の始終の時に生れあひて、まさしく見ずは、其說のあたれる事は、いかでかは知らむとする。

新字:この天地の始終の説も、仏ぶみの説と同じ事にて、人の見る事なきものなれば、そらに理を考へて云はむには、如何にも造り云ふべけれども、そは其の始終の時に生れあひて、まさしく見ずは、其説のあたれる事は、いかでかは知らむとする。

書き下し

この天地の始終の説も、仏ぶみの説と同じ事にて、人の見る事なきものなれば、そらに理を考えて云わむには、いかにも造り云うべけれども、そはその始め終りの時に生まれあいて、まさしく見ずは、その説のあたれる事は、いかでかは知らむとする。

現代語訳

この天地の始めと終わりの説も、仏典の説と同じことで、人が見ることのないものであるから、頭の中で理屈を考えて言うのであれば、どのようにでも作って言うことができるが、それは、その始めと終わりの時に生まれ合わせて実際に見るのでなければ、その説が当たっているかどうかを、どうして知ることができようか。

解説

邵康節批判の結びである。天地の始めと終わりは、仏典の説く死後の世界と同じく、誰も見たことのないものである。見たことのないものについては、頭の中の理屈でいくらでも作り話ができる。しかしその説が当たっているかどうかは、その時に生まれ合わせて自分の目で見ない限り確かめようがない、と宣長は言い切る。宣長の古学は、古事記に記された神代の伝えを、人の理屈で解釈し直さずにそのまま受け取ることを主張した。その裏には、人の知恵には確かめられる範囲に限りがあるという強い自覚があった。見ていないことを見てきたように語る説への警戒は、推測と事実を区別するという、あらゆる学問の基本にもつながっている。

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