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玉勝間 / 十一の巻 多武ノ峰の額の事

同記云、享德三年十二月三日、依召參殿下、被仰云。多武峰造營候間、額事申入殿下者也。後京極攝政御職之時、被染御自筆之、殿下可被染御筆之由、雖申之、御右筆之儀、非御能書、仰家之仁可被書之由、被仰之處、寺家無子細之由、申之間、可被仰世尊寺三位伊忠卿也、爲御使、可罷向之由被仰之。額三アリ。一者一百餘所トアリ、神前可懸也、鎭守前歟。一者妙樂寺トアリ、大講堂事也。一者聖靈院トアリ、大職冠御影安置之御廟也云云。卽向世尊寺、令對面侍從三位、執柄仰之趣、令演說、返答云。妙樂寺聖靈院額二事者、可書進也。紙ニ書テ後、金ニ堀テ被打板也、妙樂寺之額モ是分也。神前一百餘所ト申額ハ、黑キ板ニ、胡粉ヲモテ白ク被書之、我身爲重服中、(今年四月父行豐逝去、一回中也、)但可爲如何候哉、可有時儀候由被申。此返答尤也。掃部頭師富、於座席參會。三品之緣者也。此後歸-參殿下、申入彼返事了。顯〓朝臣被伺候、賜一盞、退出了。明日又可罷向之由、被仰之。雖爲重服、不可有憚、只可書進之由、被仰之。世尊寺三品被語云、後京極攝政殿御能書之間、額被遊之、雖然無御口傳之間、有其咎、有後悔、更有額書寫之御相承云云。此事東鏡ト云記ニ有之云云、と同記に見えたり。

新字:同記云、享徳三年十二月三日、依召参殿下、被仰云。多武峰造営候間、額事申入殿下者也。後京極摂政御職之時、被染御自筆之、殿下可被染御筆之由、雖申之、御右筆之儀、非御能書、仰家之仁可被書之由、被仰之処、寺家無子細之由、申之間、可被仰世尊寺三位伊忠卿也、為御使、可罷向之由被仰之。額三アリ。一者一百余所トアリ、神前可懸也、鎮守前歟。一者妙楽寺トアリ、大講堂事也。一者聖霊院トアリ、大職冠御影安置之御廟也云云。即向世尊寺、令対面侍従三位、執柄仰之趣、令演説、返答云。妙楽寺聖霊院額二事者、可書進也。紙ニ書テ後、金ニ堀テ被打板也、妙楽寺之額モ是分也。神前一百余所ト申額ハ、黒キ板ニ、胡粉ヲモテ白ク被書之、我身為重服中、(今年四月父行豊逝去、一回中也、)但可為如何候哉、可有時儀候由被申。此返答尤也。掃部頭師富、於座席参会。三品之縁者也。此後帰-参殿下、申入彼返事了。顕〓朝臣被伺候、賜一盞、退出了。明日又可罷向之由、被仰之。雖為重服、不可有憚、只可書進之由、被仰之。世尊寺三品被語云、後京極摂政殿御能書之間、額被遊之、雖然無御口伝之間、有其咎、有後悔、更有額書写之御相承云云。此事東鏡ト云記ニ有之云云、と同記に見えたり。

書き下し

同記に云わく、享徳三年十二月三日、召しに依りて殿下に参る、仰せられて云わく。多武峰造営候間、額の事殿下に申し入るる者なり。後京極摂政御職の時、御自筆にこれを染めらる、殿下御筆を染めらるべきの由、これを申すと雖も、御右筆の儀、御能書に非ず、家の仁に仰せてこれを書かるべきの由、仰せらるるの処、寺家子細無きの由、申すの間、世尊寺三位伊忠卿に仰せらるべきなり、御使として、罷り向かうべきの由これを仰せらる。額三つあり。一つは一百余所とあり、神前に懸くべきなり、鎮守の前か。一つは妙楽寺とあり、大講堂の事なり。一つは聖霊院とあり、大職冠の御影安置の御廟なり云云。即ち世尊寺に向かい、侍従三位に対面せしめ、執柄の仰せの趣を、演説せしむ、返答して云わく。妙楽寺聖霊院の額二つの事は、書き進ずべきなり。紙に書きて後、金に彫りて板に打たるるなり、妙楽寺の額もこの分なり。神前の一百余所と申す額は、黒き板に、胡粉をもて白くこれを書かる、我が身重服の中たり、(今年四月父行豊逝去、一回の中なり、)但しいかがたるべく候や、時儀有るべく候の由申さる。この返答もっともなり。掃部頭師富、座席において参会す。三品の縁者なり。この後殿下に帰参し、彼の返事を申し入れ了んぬ。顕〓朝臣伺候せらる、一盞を賜り、退出し了んぬ。明日また罷り向かうべきの由、これを仰せらる。重服たりと雖も、憚り有るべからず、ただ書き進ずべきの由、これを仰せらる。世尊寺三品語られて云わく、後京極摂政殿御能書の間、額これを遊ばさる、然りと雖も御口伝無きの間、その咎有り、後悔有り、更に額書写の御相承有りと云云。この事東鏡という記にこれ有りと云云、と同記に見えたり。

現代語訳

同じ記にこうある。享徳三年(1454)十二月三日、お召しによって殿下(関白)のもとに参ると、こう仰せになった。多武峰で造営があるので、額のことを(寺から)殿下に申し入れてきた。後京極摂政(九条良経)が在職の時には、ご自筆で書かれた。そこで殿下にも筆を執っていただきたいと申してきたが、自分は書くことについては能書ではないので、書の家の者に命じて書かせるのがよい、と仰せになったところ、寺の方でも差し支えないと申したので、世尊寺三位伊忠卿に命じるのがよい、使いとして行って来い、と仰せになった。額は三つある。一つは「一百余所」とあり、神前に懸けるもので、鎮守の前であろうか。一つは「妙楽寺」とあり、大講堂の額である。一つは「聖霊院」とあり、大織冠(藤原鎌足)の御影を安置する御廟の額である、とのことである。すぐに世尊寺に向かい、侍従三位に対面して、執柄(関白)の仰せの趣を述べたところ、返答はこうであった。妙楽寺と聖霊院の二つの額は、書いて差し上げよう。これは紙に書いた後、金に彫って板に打ち付けるものである。妙楽寺の額もこのやり方である。神前の「一百余所」という額は、黒い板に胡粉で白く書くものだが、私は重い喪に服している最中である(今年四月に父行豊が亡くなり、一周忌の内である)。ただ、どうしたものか、よろしくお計らい願いたい、と申された。この返答はもっともである。掃部頭師富がその席に居合わせた。三位の縁者である。この後殿下のもとに帰参し、その返事を申し入れた。顕〓朝臣が伺候しておられた。酒を一杯いただいて退出した。明日また行って来い、と仰せになった。喪中であっても憚ることはない、ともかく書いて差し上げよ、と仰せになった。世尊寺三位が語られるには、後京極摂政殿は能書であったので額をお書きになったが、額を書くための口伝をお持ちでなかったため、差し障りが生じて後悔され、その後あらためて額の書き方の相承を受けられた、とのことである。この事は『東鏡』(『吾妻鏡』)という記録に見えるという、と同じ記に見えている。

解説

藤原鎌足を祀る多武峰(今の談山神社)の造営にあたり、額の揮毫を世尊寺家に頼んだ経緯である。関白は自分は能書でないとして書の家に譲り、世尊寺伊忠は父の喪中を理由に神前の額だけは慎重に伺いを立てた。額には、紙に書いて金に彫るもの、黒板に胡粉で白く書くものなど、場所ごとの作法があった。興味深いのは末尾の話で、名筆で知られた後京極摂政九条良経でさえ、額を書く口伝を受けずに書いたために差し障りがあり、後悔して改めて相承を受けたという。字が上手いことと、その場にふさわしく書く作法を知ることは別だというのである。宣長は古人の技芸の伝授を重んじ、口伝の意味を記録から確かめていた。才能だけでは足りない領域があることを教える逸話である。

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