玉勝間 / 七の巻 仁木頼景法師がみまかれる時の事
同書に、同四年十月十二日、傳聞、仁木左京大夫賴景法師、今朝卒去云云、十三日云云、氣止云云、十九日、今日、新院有御樂事云云、云云、賴景法師卒去之間、不取敢如音樂、無益之旨、有沙汰、禁裏七个日已後明日、可有御沙汰、云云、武家随分之重人也。御沙汰可然歟、仙洞不及其沙汰歟、但又强不可爲難歟と有り。此ころは、武家の執權と云ひし人の卒去のをりも、斯かる御さだの有けるなりけり。
新字:同書に、同四年十月十二日、伝聞、仁木左京大夫頼景法師、今朝卒去云云、十三日云云、気止云云、十九日、今日、新院有御楽事云云、云云、頼景法師卒去之間、不取敢如音楽、無益之旨、有沙汰、禁裏七个日已後明日、可有御沙汰、云云、武家随分之重人也。御沙汰可然歟、仙洞不及其沙汰歟、但又強不可為難歟と有り。此ころは、武家の執権と云ひし人の卒去のをりも、斯かる御さだの有けるなりけり。
書き下し
同書に、同四年十月十二日、伝え聞く、仁木左京大夫頼景法師、今朝卒去すと云々。十三日云々、気止むと云々。十九日、今日、新院御楽の事有りと云々、云々、頼景法師卒去の間、取り敢えず音楽のごときは無益の旨、沙汰有り、禁裏は七箇日已後明日、御沙汰有るべしと云々、武家随分の重人なり。御沙汰然るべきか、仙洞はその沙汰に及ばざるか、ただしまた強いて難とすべからざるかと有り。この頃は、武家の執権と云いし人の卒去のおりも、かかる御沙汰の有りけるなりけり。
現代語訳
同じ書(園太暦)に、「延文四年十月十二日、伝え聞くところでは、仁木左京大夫頼景法師が今朝亡くなったという。十三日、……息が絶えたという。十九日、今日、新院(上皇)の御所で管絃の催しがあるはずだったが、……頼景法師が亡くなったので、ひとまず音楽などは控えるべきだとのお達しがあった。禁裏(天皇の御所)では七日を過ぎた明日に催しをなさるという。頼景は武家の中でも相当の重要人物である。(禁裏の)ご判断はもっともであろう。仙洞(上皇の御所)ではそこまでの配慮には及ばないのではないか。ただしまた、強いて非難すべきことでもなかろうか」とある。このころは、武家の執権といった人が亡くなったときにも、このような(朝廷での音楽を控える)ご配慮があったのである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』二の巻 忌日祥月年忌の事園大暦に云う、貞和三年九月廿五日、今日は竹林院入道左大臣の卅三回の忌辰なり、茲に因りて広義門院、西園寺無量光院の壇場に就きて、御仏事を修せらる、件の朞月の仏事、先規未だ詳らかならず云云、手〓〓を取るに、更に所見無し云云、然れども或いはまた此の事を営む人有るか、予が先妣の此の忌辰、相営む事有り、所詮幽霊の追福、遠近懇志を尽くすの条、孝子の道に叶うべきか、とあり、この論おだやかなり。
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『玉勝間』七の巻 百箇日同書に、延文三年八月九日、天晴る、伝え聞く、贈左府百箇日の仏事、今日等持寺に於て之を修すと云々と有り。贈左府は尊氏の卿なり。
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『玉勝間』一の巻 中御門宣胤卿の記また曰く、同十二月二十日云々。時に皇居は土御門殿なり、乱後修理有り、去年十二月七日、日野侍従政資の亭より還幸す。また、文亀二年正月一日(乙亥)節会、世乱以後、長享三年に至るまで、廿二年退転す、延徳二年再興す、近年また退転す、当年代始に依りて、御再興せらるる所なり、去年は諒闇に依りて平座たり。また、同二日、去夜勧修寺中納言、回覧の折紙を以て、年始歳末の礼参らしめざる者は、知行覚悟有るべきの由、室町殿仰せ候、当代大略参らざるの間、此の御沙汰に及ぶ。この年始歳末の礼は、室町殿へ、公卿たちの参らるる事なり。覚悟有るべしとは、今の世の語にも、覚悟せられよと云うと同じ、また曰く、同二月十日、去年越前に下し遣わす使者、今日上る、遅々以ての外の事なり、河合荘(内裏御料所)御年貢三千疋、知行分杣山荘分三千疋(乱以前は請切万四千疋なり)到来す。など有り。これらは、書ども読むとて、ふと心にとどまるふし共の有るを、これかれと、いささかづつぬき出でて書けるなり。乱れたりし世ほど、何事もいたく衰えたりしさましるせるを読めば、いと悲しくて、ほとほと涙も落ちぬかし。今云々と書けるに二よう有り。そはまづ云々とは、古き書共には、語をはぶきたる所に書けるを、中昔より近き世の物には、となりと云えりなど云うべき所に書けり。
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『玉勝間』五の巻 中ごろまでは諸王おほかりし事園太暦、康永三年の除目に、従五位下為実王(天暦の御後)、貞和二年の除目に、従五位下宗友の王(天暦の御後)、同三年の除目に、従五位下資方王(寛和の御後)、延文四年の除目に、従五位下資能王(寛和の御後)など有り。この程までは、諸王も猶多かりしと見えたり。
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