玉勝間 / 十一の巻 神社の湯立
同記云、同月廿九日、粟田口神明有湯立。參詣拜見。
新字:同記云、同月廿九日、粟田口神明有湯立。参詣拝見。
書き下し
同記に云わく、同月廿九日、粟田口神明に湯立有り。参詣して拝見す。
現代語訳
同じ記にこうある。同じ月の二十九日、粟田口の神明社で湯立があった。参詣して拝見した。
解説
京の粟田口の神明社で湯立の神事があり、参詣して見たという、わずか一行の記事である。湯立は大釜に湯を沸かし、巫女が笹の葉で熱湯を振りかけて神意をうかがい、穢れを祓う神事で、湯立神楽とも呼ばれて今も各地の神社に伝わっている。粟田口の神明は伊勢の神を勧請した社で、京の東の出入口にあたる。宣長がこの短い記事を書き留めたのは、室町時代の京の町中で、すでにこうした神事が行われ、公家が見物に出かけていたことを示す証しになるからであろう。祭りの起こりや広がりを知るには、こうした何気ない一行が手がかりになる。大きな出来事だけでなく、ささやかな記録にも歴史は宿っている。
関連する章句
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『玉勝間』十三の巻 信濃国の或村村の神事にうたふ歌ある人の云わく、しなのの国の、天竜川の河上なる、川村和田きさわなど云う里里の神事に、湯釜に湯をわかしたぎらせて、そのめぐりに、幣を立ておきて、夜更けて、その釜のほとりに、里人男女、老いたる少き打ち交じりつどいて、その幣をとり持ちて、うたう歌。おゆめすときのな、おみかげこぐそ〓〓、やくもだのぼれ〓〓、
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