玉勝間 / 十の巻 百座ノ祓
白川顯廣王記云、長寬三年六月六日、今日百座祓。そのかみ早く斯くさまのわざも有しなり。
新字:白川顕広王記云、長寛三年六月六日、今日百座祓。そのかみ早く斯くさまのわざも有しなり。
書き下し
白川顕広王記に云う、長寛三年六月六日、今日百座の祓。そのかみ早くかくさまのわざも有りしなり。
現代語訳
白川顕広王記にいう。「長寛三年六月六日、今日、百座の祓(はらえ)があった。」その当時すでに、このようなことも行われていたのである。
解説
神祇伯を世襲した白川家の顕広王の日記から、「百座の祓」の記事を抜き出した短い段である。百座の祓は、名のとおり多くの座を設けて一度に行う大がかりな祓えであったと思われる。宣長は、平安末期の長寛三年という早い時期に、すでにこうした形の祓えが行われていたことに注目し、「そのかみ早くかくさまのわざも有りしなり」と記す。祓えは罪や穢れを除く神道の最も基本的な祭儀で、古くは大祓のように定まった時に行うものだった。それが数を重ねて盛大に行う形に広がっていたことを、神祇を司る家の当主の日記で確かめたのである。いつから始まったのかを記録で押さえておくことは、慣習の本来の姿と後の付け足しとを見分けるための第一歩である。
関連する章句
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『玉勝間』八の巻 祭に臨みて神主を定むる事左経記に、寛仁元年十一月三日丁酉、天晴る、祭事を行わんが為に、梅宮に参る云云、但し氏人等遅参す云云、仍て大膳少進従五位下上野朝臣広遠を以て、神主と為す云云(先例は氏人を以て神主と為す、而るに遅参す、仍て定め有りて、広遠を以て神主と為す)と有るを見れば、古は、祭に臨みて、神主と云うものを、定められたる事も有しなり。
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