玉勝間 / 十一の巻 三万六千神の祭
同記云、文安元年七月十二日、是夜於從三位安倍有重卿私宅三萬六千神祭在之。是去月廿三日以來、彗星出現之故也、と云へり。陰陽家には、斯かるさまざまの祭の有るなり。
新字:同記云、文安元年七月十二日、是夜於従三位安倍有重卿私宅三万六千神祭在之。是去月廿三日以来、彗星出現之故也、と云へり。陰陽家には、斯かるさまざまの祭の有るなり。
書き下し
同記に云わく、文安元年七月十二日、この夜従三位安倍有重卿の私宅において三万六千神祭これ在り。これ去月廿三日以来、彗星出現の故なり、と云えり。陰陽家には、かかるさまざまの祭の有るなり。
現代語訳
同じ記にこうある。文安元年(1444)七月十二日、この夜、従三位安倍有重卿の私宅で三万六千神祭が行われた。これは先月二十三日以来、彗星が現れているためである、と言っている。陰陽家には、このようなさまざまな祭があるのである。
解説
彗星の出現に際して、陰陽家の安倍有重が私宅で「三万六千神祭」を行ったという『康富記』の短い記事である。安倍氏は安倍晴明の子孫で、土御門家として朝廷の陰陽道を担った。彗星や日食などの天変は災いの前触れとされ、そのたびに星や神々を祭って災厄を払った。三万六千神とは、天地のあらゆる神々をまとめて祭る陰陽道の祭祀の名である。宣長は「陰陽家にはこのような色々の祭がある」と短く添えるだけで、評価は加えていない。ただ、古の神道と、陰陽道や仏教が混じり合った後世の祭りとを分けて見る宣長の目からすれば、これは古の道とは別の系統に属するものとして書き留められている。天の異変に人がどう向き合ったかを示す記録でもある。
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