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玉勝間 / 八の巻 祭に臨みて神主を定むる事

公糸束記に、寛仁元年十一月三日丁酉、天晴、爲行祭事、參梅宮云云、但氏人等遲參云云、仍以大膳少進從五位下上野朝臣廣遠、爲神主云云、(先例以氏人爲神主、而遲參、仍有定、以廣遠爲神主、)と有るを見れば、古、は、祭に臨みて、神主と云ふものを、定められたる事も有しなり。

新字:公糸束記に、寛仁元年十一月三日丁酉、天晴、為行祭事、参梅宮云云、但氏人等遅参云云、仍以大膳少進従五位下上野朝臣広遠、為神主云云、(先例以氏人為神主、而遅参、仍有定、以広遠為神主、)と有るを見れば、古、は、祭に臨みて、神主と云ふものを、定められたる事も有しなり。

書き下し

左経記に、寛仁元年十一月三日丁酉、天晴る、祭事を行わんが為に、梅宮に参る云云、但し氏人等遅参す云云、仍て大膳少進従五位下上野朝臣広遠を以て、神主と為す云云(先例は氏人を以て神主と為す、而るに遅参す、仍て定め有りて、広遠を以て神主と為す)と有るを見れば、古は、祭に臨みて、神主と云うものを、定められたる事も有しなり。

現代語訳

左経記(源経頼の日記)に「寛仁元年十一月三日丁酉、晴れ。祭事を行うために梅宮に参った云々。ただし氏人らが遅参した云々。そこで大膳少進従五位下上野朝臣広遠を神主とした云々(先例では氏人を神主とするが、遅参したので、定めがあって広遠を神主とした)」とあるのを見ると、昔は祭に臨んで、神主というものを定められたこともあったのである。

解説

神主が、祭のたびにその場で定められることもあったという古い習いを、平安時代の日記から示した段である。梅宮は京都の梅宮大社で、橘氏の氏神を祀る社であり、祭では氏人、つまり橘氏の一族の者が神主を務めるのが先例であった。ところがこの日は氏人が遅刻したため、朝廷の役人である上野広遠が急遽神主に立てられたという。宣長の時代には、神主は特定の家が世襲する職と考えられていたが、古くは「神主」とは祭の際に神事をつかさどる役目のことで、必ずしも常に置かれた職ではなかったことが分かる。伊勢の神宮の近くに住み、神職の門人も多く抱えた宣長にとって、神主の職の本来の姿は大きな関心事であった。今当たり前と思われている制度や職の形も、古くは違っていたことがある。記録の小さな出来事から、制度の成り立ちを考える手がかりを得る段である。

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