玉勝間 / 十一の巻 高麗人来朝
凡今度高麗人來朝事、未付兵庫津之以前、於管領有評定。其謂室町殿御幼稚時分也、諸大名國役已下、無沙汰之時節也。旁爲無益歟之間、不可被入日本之由、被仰遣之處、高麗人申云、非如先先商賣之料、爲普廣院殿御弔、參洛之由候間、就其可被入歟之由、諸大名等有評議、遂以被入云云。普廣院殿御代、永享六七年比、來朝之後、今度初者也云云。
新字:凡今度高麗人来朝事、未付兵庫津之以前、於管領有評定。其謂室町殿御幼稚時分也、諸大名国役已下、無沙汰之時節也。旁為無益歟之間、不可被入日本之由、被仰遣之処、高麗人申云、非如先先商売之料、為普広院殿御弔、参洛之由候間、就其可被入歟之由、諸大名等有評議、遂以被入云云。普広院殿御代、永享六七年比、来朝之後、今度初者也云云。
書き下し
およそ今度高麗人来朝の事、未だ兵庫津に付かざるの以前、管領において評定有り。その謂は室町殿御幼稚の時分なり、諸大名国役以下、無沙汰の時節なり。かたがた無益たるかの間、日本に入れらるべからざるの由、仰せ遣わさるるの処、高麗人申して云わく、先々の如き商売の料に非ず、普広院殿御弔いのため、参洛の由候う間、それに就きて入れらるべきかの由、諸大名等評議有りて、遂に以て入れらると云云。普広院殿の御代、永享六七年の比、来朝の後、今度初めてなる者なり云云。
現代語訳
そもそも今度の高麗人来朝のことは、まだ兵庫の港に着かないうちに、管領のもとで評定があった。その理由は、室町殿(将軍)がご幼少の時期であり、諸大名の国役なども果たされていない時節である。あれこれ益のないことであろうから、日本に入れてはならないと仰せ遣わしたところ、高麗人が申すには、以前のような商売のためではなく、普広院殿(足利義教)のお弔いのために上洛するのだということであったので、それならば入れるべきであろうかと諸大名らが評議して、ついに入れられたという。普広院殿の御代の永享六、七年(1434〜35)ごろに来朝して以後、今度が初めてであるという。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十一の巻 高麗人来朝同記に云わく、同三年五月六日、肥前入道語りて云わく。近日高麗人来朝すべきなり。先々要脚を諸大名に懸け仰せられてこれを出ださるるの処、今の時分諸大名、諸国役出銭叶うべからざるの間、高麗人京都に入れ立てらるべからず、追い返さるべきなり。その間の事、管領畠山存ぜられ候間、諸大名一揆して、高麗人を返さるべきなり。いかようたるべきやと、意見を密々に〓大外記に談合するの由これを語る。唐船は誠に日本に入るべからざるの由、先々御沙汰有るか。高麗人に於いては、既に神功皇后御退治以後、来服の三韓の随一なり。高麗相通ずるは、神慮に叶うべきなり。入るべからざるの由、今更仰せらるるは、後年の煩いたるべきか、いかにして返さるべく候や、所詮上古往昔来朝の貢賦なり、近来は商売のために入来する所有るなり。然らば牒状の文章、上古に違うか、古今の牒状を取り集め見合わせて、文章の咎に就きて、高麗人を返さるべきの由、外史の意見か云云。六月十九日、この日高麗人室町殿に参り、御目に懸くる者なり。当御代初度、かつ普広院殿の喪を弔い奉るの由の聘使なり云云。官人の名尋ね注すべし。その儀おのおの乗馬なり、布衣に笠を着く云云。その数五十騎ばかりに及ぶ数云云。路次に楽を作す、或いは馬上にこれを操る、笛一人、鼓一人、琵琶一人、鉦鼓一人、その外吹物二人これ有り云云。進上物・牒状、尋ね注すべし。東山双林寺の傍ら景雲庵を、休所と為す云云。三条東洞院を北へ行き、中御門を西へ行き、室町を北へ行き、御所の総門に参る云云。供給の食物の事、先規の如く千代徳殿(新〓殿勘解由小路殿)下行を致さる云云。
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『玉勝間』一の巻 中御門宣胤卿の記また曰く、同十二月二十日云々。時に皇居は土御門殿なり、乱後修理有り、去年十二月七日、日野侍従政資の亭より還幸す。また、文亀二年正月一日(乙亥)節会、世乱以後、長享三年に至るまで、廿二年退転す、延徳二年再興す、近年また退転す、当年代始に依りて、御再興せらるる所なり、去年は諒闇に依りて平座たり。また、同二日、去夜勧修寺中納言、回覧の折紙を以て、年始歳末の礼参らしめざる者は、知行覚悟有るべきの由、室町殿仰せ候、当代大略参らざるの間、此の御沙汰に及ぶ。この年始歳末の礼は、室町殿へ、公卿たちの参らるる事なり。覚悟有るべしとは、今の世の語にも、覚悟せられよと云うと同じ、また曰く、同二月十日、去年越前に下し遣わす使者、今日上る、遅々以ての外の事なり、河合荘(内裏御料所)御年貢三千疋、知行分杣山荘分三千疋(乱以前は請切万四千疋なり)到来す。など有り。これらは、書ども読むとて、ふと心にとどまるふし共の有るを、これかれと、いささかづつぬき出でて書けるなり。乱れたりし世ほど、何事もいたく衰えたりしさましるせるを読めば、いと悲しくて、ほとほと涙も落ちぬかし。今云々と書けるに二よう有り。そはまづ云々とは、古き書共には、語をはぶきたる所に書けるを、中昔より近き世の物には、となりと云えりなど云うべき所に書けり。
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『玉勝間』十一の巻 室町殿の判の字の事同記に云わく、同六年四月二日、後に聞く、この日室町殿より、伊勢因幡守御使として、仰せ下されて云わく。今月御判始め有るべし、しかるに御判の事、御名字を草に書き成さるるの儀これ有り。或いはまた別字を以て作られ候儀これ有り、何の字を以て用いらるべきや撰び進ずべきの由、これを仰せらる。然りと雖も、先々この事、仰せを蒙らざるか、注し置かざるなり。もしまた記伝儒など撰び進ぜらるるか、伝奏に仰せ合わせらるるが然るべきか、ただまた使いに就きて撰び進ずべきの由、重ねて仰せ下さるべきか、御計らい有るべきの由、返事申さる。その後未だ仰せ出ださるるの旨無しと云云。鹿苑院殿普広院殿両代は、義の字なり。勝定院殿の御判は、慈の字なり。
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『玉勝間』六の巻 朔日の礼中原の康富の記に、嘉吉二年七月一日、伏見殿に参る、また三条殿に参る、皆朔日の礼なり、とあり。
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『玉勝間』十一の巻 天皇御腫物御針をたて奉る事同記に云わく、同十七日、〓史の亭に参る、禁裏御不予の事、驚き入るの由申し談ず云云。談ぜられて云わく、禁裏の御腫物は、遮なり。腫物医師久阿以下、一昨日十五日、始めてこれを拝見す。御療養難儀の由申すの間、管領畠山方より、下〓という医師を、召し進ぜらるるの処、御針をば、玉体に憚り候間、いかが仕るべきやの由申し、既に下郷して退出せんと欲するの間、三条中納言中山中納言等、談合ありて、この事いかが然るべきや云云。〓史同じく参らせ候云云。本朝に針博士置かるるは、かようの時の御用のためなり。何事ぞ必ず針を進ずべからざるの由申すべきや、所詮権道たるの間、御針苦しかるべからざるかの由、おのおの評定〓せらる。よって下〓御針をたてまいらすと云云。本道の医師の中に、当時針の名誉無し、道の零落と云うべきか。
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