玉勝間 / 十一の巻 高麗人来朝
同記云、同三年五月六日、肥前入道語云。近日高麗人可來朝也。先先要脚被懸仰諸大名被出之處、今時分諸大名、諸國役出錢不可叶之間、高麗人不可被入立京都、可被追返也。其間事、管領畠山被存候間、諸大名一揆して、可被返高麗人也。可爲如何樣哉、意見密密談合〓大外記之由語之。唐船者誠不可入日本之由、有先先御沙汰歟。於高麗人者、旣神功皇后御退治以後、來服之三韓之隨一也。高麗相通者、可叶神慮也。不可入之由、今更被仰者、可爲後年煩歟、如何して可被返候也、所詮上古往昔來朝之貢賦也、近來有爲商賣所入來也。然者牒狀之文章、違上古歟、古今之牒狀取集見合天、就文章之咎、可被返高麗人之由、外史意見歟云云。六月十九日、是日高麗人參于室町殿、懸御目者也。當御代初度、且奉弔普廣院殿喪之由聘使也云云。官人名可尋注之。其儀各乘馬也、布衣着笠云云。其數及五十騎許數云云。路次作樂、或馬上操之、笛一人、皷一人、琵琶一人、鉦皷一人、其外吹物二人者之云云。進上物牒狀、可尋注之。東山雙林寺之傍景雲庵、爲休所云云。三條東洞院北行、中御門西行、室町北行、參御所總門云云。供給食物事、如先規千代德殿(新〓殿勘解由小路殿)被致下行云云。
新字:同記云、同三年五月六日、肥前入道語云。近日高麗人可来朝也。先先要脚被懸仰諸大名被出之処、今時分諸大名、諸国役出銭不可叶之間、高麗人不可被入立京都、可被追返也。其間事、管領畠山被存候間、諸大名一揆して、可被返高麗人也。可為如何様哉、意見密密談合〓大外記之由語之。唐船者誠不可入日本之由、有先先御沙汰歟。於高麗人者、既神功皇后御退治以後、来服之三韓之随一也。高麗相通者、可叶神慮也。不可入之由、今更被仰者、可為後年煩歟、如何して可被返候也、所詮上古往昔来朝之貢賦也、近来有為商売所入来也。然者牒状之文章、違上古歟、古今之牒状取集見合天、就文章之咎、可被返高麗人之由、外史意見歟云云。六月十九日、是日高麗人参于室町殿、懸御目者也。当御代初度、且奉弔普広院殿喪之由聘使也云云。官人名可尋注之。其儀各乗馬也、布衣着笠云云。其数及五十騎許数云云。路次作楽、或馬上操之、笛一人、鼓一人、琵琶一人、鉦鼓一人、其外吹物二人者之云云。進上物牒状、可尋注之。東山双林寺之傍景雲庵、為休所云云。三条東洞院北行、中御門西行、室町北行、参御所総門云云。供給食物事、如先規千代徳殿(新〓殿勘解由小路殿)被致下行云云。
書き下し
同記に云わく、同三年五月六日、肥前入道語りて云わく。近日高麗人来朝すべきなり。先々要脚を諸大名に懸け仰せられてこれを出ださるるの処、今の時分諸大名、諸国役出銭叶うべからざるの間、高麗人京都に入れ立てらるべからず、追い返さるべきなり。その間の事、管領畠山存ぜられ候間、諸大名一揆して、高麗人を返さるべきなり。いかようたるべきやと、意見を密々に〓大外記に談合するの由これを語る。唐船は誠に日本に入るべからざるの由、先々御沙汰有るか。高麗人に於いては、既に神功皇后御退治以後、来服の三韓の随一なり。高麗相通ずるは、神慮に叶うべきなり。入るべからざるの由、今更仰せらるるは、後年の煩いたるべきか、いかにして返さるべく候や、所詮上古往昔来朝の貢賦なり、近来は商売のために入来する所有るなり。然らば牒状の文章、上古に違うか、古今の牒状を取り集め見合わせて、文章の咎に就きて、高麗人を返さるべきの由、外史の意見か云云。六月十九日、この日高麗人室町殿に参り、御目に懸くる者なり。当御代初度、かつ普広院殿の喪を弔い奉るの由の聘使なり云云。官人の名尋ね注すべし。その儀おのおの乗馬なり、布衣に笠を着く云云。その数五十騎ばかりに及ぶ数云云。路次に楽を作す、或いは馬上にこれを操る、笛一人、鼓一人、琵琶一人、鉦鼓一人、その外吹物二人これ有り云云。進上物・牒状、尋ね注すべし。東山双林寺の傍ら景雲庵を、休所と為す云云。三条東洞院を北へ行き、中御門を西へ行き、室町を北へ行き、御所の総門に参る云云。供給の食物の事、先規の如く千代徳殿(新〓殿勘解由小路殿)下行を致さる云云。
現代語訳
同じ記にこうある。嘉吉三年(1443)五月六日、肥前入道が語って言うには、近日高麗人(朝鮮の使節)が来朝するはずである。これまでは費用を諸大名に割り当てて出させてきたが、今の時期、諸大名は諸国の役としての出銭ができないので、高麗人を京都に入れてはならず、追い返すべきである。その間のことは管領畠山が心得ておられるので、諸大名が一致して高麗人を返すべきだ、という。どうすべきかと、意見を内々に大外記に相談したのだと語った。(大外記の考えは次のようであった。)唐船(中国の船)は決して日本に入れてはならないという沙汰は以前からあったか。しかし高麗人については、神功皇后の御征討以後、服属してきた三韓の筆頭である。高麗と通じ合うことは神の御心にかなうはずである。入れてはならないと今さら仰せ出されるのは、後年の煩いとなるであろう。どうやって返すことができようか。つまるところ、上古の昔は来朝して貢ぎ物を納めていたのであり、近ごろは商売のために入って来るのである。そうであれば、牒状(外交文書)の文章が上古と違っているのではないか。古今の牒状を取り集めて見比べ、文章の落ち度を理由に高麗人を返すべきだ、というのが外史(大外記)の意見であろうか、とのことである。六月十九日、この日高麗人が室町殿に参り、将軍にお目にかかった。今の将軍の御代になって初めての使いであり、また普広院殿(足利義教)の喪を弔う聘使であるという。官人の名は尋ねて書き留めるべきである。その行列はそれぞれ馬に乗り、布衣を着て笠をかぶっていたという。その数は五十騎ほどに及んだという。道中で楽を奏し、あるいは馬上で楽器を操った。笛一人、鼓一人、琵琶一人、鉦鼓一人、その他に吹物が二人いたという。進上物と牒状は尋ねて書き留めるべきである。東山の双林寺のそばの景雲庵を休息所とした。三条東洞院を北へ、中御門を西へ、室町を北へ進んで、御所の総門に参ったという。供給する食物のことは、先例のとおり千代徳殿(新〓殿、勘解由小路殿=斯波家)が支給されたという。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十一の巻 高麗人来朝およそ今度高麗人来朝の事、未だ兵庫津に付かざるの以前、管領において評定有り。その謂は室町殿御幼稚の時分なり、諸大名国役以下、無沙汰の時節なり。かたがた無益たるかの間、日本に入れらるべからざるの由、仰せ遣わさるるの処、高麗人申して云わく、先々の如き商売の料に非ず、普広院殿御弔いのため、参洛の由候う間、それに就きて入れらるべきかの由、諸大名等評議有りて、遂に以て入れらると云云。普広院殿の御代、永享六七年の比、来朝の後、今度初めてなる者なり云云。
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『玉勝間』十二の巻 朝鮮ノ国にて加藤清正の人がたを射るわざ新井氏の藩翰譜にいわく、朝鮮国慶尚・全羅道等の水営の軍官、年毎に日をうらないて、諸営の戦艦をあつめて、海に浮かべて、海神を祭るわざあり。わらにて人像を造り、これを射てしずむ。この事、かの国の人は、秘すれども、よく聞けば、清正を呪詛するわざにて、その人像は、清正にかたどれるなり。然るにかの国のよく射る者と云えども、おそれて、中る事あたわざるを、いずれの年にか有りけむ、射あてたる者ありければ、そう無き高名と、云いののしりけるに、その射たる者、たちまち物に狂いてぞ、おどり走りける。その親族ども、清正の霊を祭りて、深く罪を謝しけるにぞ、かの人はうつし心になりにける。それより後は、いよいよ皆おそれて、射る者かえりて、あたらむ事をおそるるとぞ。また本朝寛文の中ごろ、かの例の祭に、水営の軍艦ども、海に浮かびけるに、にわかに風はげしくおこり、浪荒く立ちて、艦ども多くやぶれにける。これ清正のたたりなりとて、いたく恐れけるよし、対馬の国人に、ひそかにうけたまわりぬと、加藤氏の条に見えたり。宣長これを読みて、詠みけるは、いそしきやこのおみにこそたらし姫神の命の御たまたびけめ、かの朝鮮のえだちに、もろこしの国まで大御国の光をかがやかせしは、この主になむ有りける。
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『玉勝間』十四の巻 異国の使に神酒を賜ふ事同じく舒明天皇の御巻に、四年唐国の使人高表仁等、難波津に到る、云云、即日神酒を給う。玄蕃寮式にも、およそ新羅の客入朝せば、神酒を給え、と有りて、その神酒のことも、その醸酒の料稲、大和国賀茂・意富・纏向・倭文の四社、河内国恩智の一社、和泉国安那志の一社、摂津国住道・伊佐具の二社、各三十束、合わせて二百四十束は、住道社に送れ。大和国片岡の一社、摂津国広田・生田・長田の三社、各五十束、合わせて二百束は、生田社に送れ。並びに神部をして造らしめ、中臣一人を差して、酒を給う使に充てよ。生田社の酒を醸せるは、敏売崎に於て給い、住道社の酒を醸せるは、難波の館に於て給えと見えたり。そもそもこの神酒を蕃客に給うこと、思うに神功皇后の御世のゆえよし有る事なるべし。
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『神皇正統記』巻二 第十五代 神功皇后皇后いまだ筑紫にましましし時、皇子の異母の兄忍熊の王謀反をおこして、ふせぎ申さんとしければ、皇子をば武内の大臣にいだかせて、紀伊の水門につけ、皇后はすぐに難波につき給て、程なく其乱を平げられにき。皇子おとなび給しかば皇太子とす。武内の大臣もはら朝政を輔佐し申けり。大和の磐余稚桜の宮にまします。是より三韓の国、年ごとに御つきをそなへ、此国よりも彼国に鎮守のつかさをおかれしかば、西蕃相通て国家とみさかりなりき。又もろこしへも使をつかはされけるにや。「倭国の女王遣使て来朝す。」と後漢書にみえたり。元年辛巳年は漢の孝献帝二十三年にあたる。漢の世始りて十四代と云し時、王莽と云臣位をうばひて十四年ありき。其後漢にかへりて、又十三代孝献の時に、漢は滅して此御代の十九年己亥に献帝位をさりて、魏の文帝にゆづる。是より天下三にわかれて、魏・蜀・呉となる。呉は東によれる国なれば、日本の使もまづ通じけるにや。呉国より道々のたくみなどまでわたされき。
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『玉勝間』六の巻 朔日の礼中原の康富の記に、嘉吉二年七月一日、伏見殿に参る、また三条殿に参る、皆朔日の礼なり、とあり。
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『玉勝間』一の巻 中御門宣胤卿の記また曰く、同十二月二十日云々。時に皇居は土御門殿なり、乱後修理有り、去年十二月七日、日野侍従政資の亭より還幸す。また、文亀二年正月一日(乙亥)節会、世乱以後、長享三年に至るまで、廿二年退転す、延徳二年再興す、近年また退転す、当年代始に依りて、御再興せらるる所なり、去年は諒闇に依りて平座たり。また、同二日、去夜勧修寺中納言、回覧の折紙を以て、年始歳末の礼参らしめざる者は、知行覚悟有るべきの由、室町殿仰せ候、当代大略参らざるの間、此の御沙汰に及ぶ。この年始歳末の礼は、室町殿へ、公卿たちの参らるる事なり。覚悟有るべしとは、今の世の語にも、覚悟せられよと云うと同じ、また曰く、同二月十日、去年越前に下し遣わす使者、今日上る、遅々以ての外の事なり、河合荘(内裏御料所)御年貢三千疋、知行分杣山荘分三千疋(乱以前は請切万四千疋なり)到来す。など有り。これらは、書ども読むとて、ふと心にとどまるふし共の有るを、これかれと、いささかづつぬき出でて書けるなり。乱れたりし世ほど、何事もいたく衰えたりしさましるせるを読めば、いと悲しくて、ほとほと涙も落ちぬかし。今云々と書けるに二よう有り。そはまづ云々とは、古き書共には、語をはぶきたる所に書けるを、中昔より近き世の物には、となりと云えりなど云うべき所に書けり。
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