史記 / 春申君列伝
春申君者,楚人也,名歇,姓黃氏。游學博聞,事楚頃襄王。頃襄王以歇為辯,使於秦。秦昭王使白起攻韓、魏,敗之於華陽,禽魏將芒卯,韓、魏服而事秦。秦昭王方令白起與韓、魏共伐楚,未行,而楚使黃歇適至於秦,聞秦之計。當是之時,秦已前使白起攻楚,取巫、黔中之郡,拔鄢郢,東至竟陵,楚頃襄王東徙治於陳縣。黃歇見楚懷王之為秦所誘而入朝,遂見欺,留死於秦。頃襄王,其子也,秦輕之,恐壹舉兵而滅楚。歇乃上書說秦昭王曰:天下莫彊於秦、楚。今聞大王欲伐楚,此猶兩虎相與鬬。兩虎相與鬬而駑犬受其獘,不如善楚。臣請言其說:臣聞物至則反,冬夏是也;致至則危,累棋是也。今大國之地,遍天下有其二垂,此從生民已來,萬乘之地未嘗有也。
新字:春申君者,楚人也,名歇,姓黄氏。游学博聞,事楚頃襄王。頃襄王以歇為弁,使於秦。秦昭王使白起攻韓、魏,敗之於華陽,禽魏将芒卯,韓、魏服而事秦。秦昭王方令白起与韓、魏共伐楚,未行,而楚使黄歇適至於秦,聞秦之計。当是之時,秦已前使白起攻楚,取巫、黔中之郡,抜鄢郢,東至竟陵,楚頃襄王東徙治於陳県。黄歇見楚懐王之為秦所誘而入朝,遂見欺,留死於秦。頃襄王,其子也,秦軽之,恐壱舉兵而滅楚。歇乃上書説秦昭王曰:天下莫彊於秦、楚。今聞大王欲伐楚,此猶両虎相与闘。両虎相与闘而駑犬受其獘,不如善楚。臣請言其説:臣聞物至則反,冬夏是也;致至則危,累棋是也。今大国之地,遍天下有其二垂,此従生民已来,万乗之地未嘗有也。
書き下し
春申君は楚人なり、名は歇、姓は黄氏。游学して博聞、楚の頃襄王に事ふ。頃襄王、歇を以て弁と為し、秦に使ひせしむ。秦の昭王、白起をして韓・魏を攻めしめ、これを華陽に敗り、魏将芒卯を禽にす。韓・魏服して秦に事ふ。秦の昭王方に白起をして韓・魏と共に楚を伐たしめんとし、未だ行かず、而して楚の使ひ黄歇適々秦に至り、秦の計を聞く。是の時に当たり、秦已に前に白起をして楚を攻めしめ、巫・黔中の郡を取り、鄢郢を抜き、東して竟陵に至る。楚の頃襄王、東に徙りて陳県に治す。黄歇は楚の懐王の秦に誘はれて入朝し、遂に欺かれて留められ秦に死するを見る。頃襄王はその子なり、秦これを軽んず、恐らくは壹たび兵を挙げて楚を滅ぼさん。歇乃ち上書して秦の昭王に説きて曰く、天下に秦・楚より彊きは莫し。今聞く、大王楚を伐たんと欲すと。此れ猶ほ両虎の相与に闘ふがごとし。両虎相与に闘へば駑犬その獘を受く、楚を善くするに如かず。臣請ふその説を言はん。臣聞く、物至れば則ち反る、冬夏是れなり。致至れば則ち危ふし、累棋是れなり。今、大国の地は、遍く天下にその二垂を有す、此れ生民より已来、万乗の地の未だ嘗て有らざる所なり。
現代語訳
春申君は楚の人で、名を歇、姓を黄氏といった。諸国を遊学して見聞が広く、楚の頃襄王に仕えた。頃襄王は黄歇が弁舌に優れていると見て、秦へ使者として送った。秦の昭王は白起に韓・魏を攻めさせ、華陽で破って魏の将芒卯を捕らえ、韓・魏は降伏して秦に仕えていた。秦の昭王はちょうど白起に韓・魏と共に楚を討たせようとしていたが、まだ出兵しないうちに、楚の使者の黄歇が秦に着き、秦の計画を耳にした。このころ、秦はすでにそれ以前に白起に楚を攻めさせ、巫郡と黔中郡を取り、都の鄢郢を落とし、東の竟陵にまで達していた。楚の頃襄王は東へ移って陳県を都としていた。黄歇は、楚の懐王が秦に誘われて入朝し、欺かれて抑留され、秦で死んだのを見ていた。頃襄王はその子であり、秦は彼を軽んじていたので、ひとたび兵を挙げれば楚を滅ぼしてしまうおそれがあった。黄歇はそこで上書して秦の昭王に説いた。天下に秦と楚より強い国はない。いま聞けば、大王は楚を討とうとしておられるという。これは二匹の虎が互いに闘うようなものだ。二匹の虎が闘えば、のろまな犬がその疲れにつけこむ。楚と親しくするのが一番だ。その理由を申し上げたい。物事は極まれば反転すると聞いている。冬と夏がそれだ。積み上げすぎれば危うくなる。碁石を積み重ねるのがそれだ。いま大国(秦)の領土は、天下の西と北の二つの辺境にまたがっている。これは人類が生まれてこのかた、万乗の国がいまだかつて持ったことのない広さだ。
解説
この章句が説くこと
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