師導古典を学びたいすべての人に

史記 / 楚世家

秦破韓宜陽,而韓猶復事秦者,以先王墓在平陽,而秦之武遂去之七十里,以故尤畏秦。不然,秦攻三川,趙攻上黨,楚攻河外,韓必亡。楚之救韓,不能使韓不亡,然存韓者楚也。韓已得武遂於秦,以河山爲塞,所報德莫如楚厚,臣以爲其事王必疾。齊之所信於韓者,以韓公子眛爲齊相也。韓已得武遂於秦,王甚善之,使之以齊、韓重樗裏疾,疾得齊、韓之重,其主弗敢棄疾也。今又益之以楚之重,樗里子必言秦,復與楚之侵地矣。」於是懷王許之,竟不合秦,而合齊以善韓。二十四年,倍齊而合秦。秦昭王初立,乃厚賂於楚。楚往迎婦。二十五年,懷王入與秦昭王盟,約於黃棘。秦復與楚上庸。二十六年,齊、韓、魏爲楚負其從親而合於秦,三國共伐楚。楚使太子入質於秦而請救。秦乃遣客卿通將兵救楚,三國引兵去。二十七年,秦大夫有私與楚太子鬬,楚太子殺之而亡歸。二十八年,秦乃與齊、韓、魏共攻楚,殺楚將唐眛,取我重丘而去。二十九年,秦復攻楚,大破楚,楚軍死者二萬,殺我將軍景缺。懷王恐,乃使太子爲質於齊以求平。三十年,秦復伐楚,取八城。秦昭王遺楚王書曰:「始寡人與王約爲弟兄,盟于黃棘,太子爲質,至驩也。

新字:秦破韓宜陽,而韓猶復事秦者,以先王墓在平陽,而秦之武遂去之七十里,以故尤畏秦。不然,秦攻三川,趙攻上党,楚攻河外,韓必亡。楚之救韓,不能使韓不亡,然存韓者楚也。韓已得武遂於秦,以河山為塞,所報徳莫如楚厚,臣以為其事王必疾。斉之所信於韓者,以韓公子眛為斉相也。韓已得武遂於秦,王甚善之,使之以斉、韓重樗裏疾,疾得斉、韓之重,其主弗敢棄疾也。今又益之以楚之重,樗里子必言秦,復与楚之侵地矣。」於是懐王許之,竟不合秦,而合斉以善韓。二十四年,倍斉而合秦。秦昭王初立,乃厚賂於楚。楚往迎婦。二十五年,懐王入与秦昭王盟,約於黄棘。秦復与楚上庸。二十六年,斉、韓、魏為楚負其従親而合於秦,三国共伐楚。楚使太子入質於秦而請救。秦乃遣客卿通将兵救楚,三国引兵去。二十七年,秦大夫有私与楚太子闘,楚太子殺之而亡帰。二十八年,秦乃与斉、韓、魏共攻楚,殺楚将唐眛,取我重丘而去。二十九年,秦復攻楚,大破楚,楚軍死者二万,殺我将軍景欠。懐王恐,乃使太子為質於斉以求平。三十年,秦復伐楚,取八城。秦昭王遺楚王書曰:「始寡人与王約為弟兄,盟于黄棘,太子為質,至驩也。

書き下し

秦韓の宜陽を破る。而して韓猶ほ復た秦に事ふる者は、先王の墓平陽に在りて、而して秦の武遂之を去ること七十里なるを以てなり。故を以て尤も秦を畏る。然らずんば、秦三川を攻め、趙上党を攻め、楚河外を攻めば、韓必ず亡びん。楚の韓を救ふは、韓をして亡びざらしむること能はず。然れども韓を存する者は楚なり。韓已に武遂を秦より得て、河山を以て塞と為す。徳に報ゆる所は楚の厚きに如くは莫し。臣以為へらく、其の王に事ふること必ず疾からんと。斉の韓に信ぜらるる所以の者は、韓の公子眛を以て斉の相と為すなり。韓已に武遂を秦より得たり。王甚だ之に善くし、之をして斉・韓を以て樗里疾を重んぜしめよ。疾斉・韓の重きを得ば、其の主敢て疾を棄てざるなり。今又之に益すに楚の重きを以てせば、樗里子必ず秦に言ひ、復た楚の侵地を与へん」と。是に於て懐王之を許し、竟に秦に合せずして、斉に合して以て韓に善くす。二十四年、斉に倍きて秦に合す。秦の昭王初めて立ち、乃ち厚く楚に賂ふ。楚往きて婦を迎ふ。二十五年、懐王入りて秦の昭王と盟ひ、黄棘に約す。秦復た楚に上庸を与ふ。二十六年、斉・韓・魏、楚の其の従親に負きて秦に合するが為に、三国共に楚を伐つ。楚太子をして入りて秦に質たらしめて救ひを請ふ。秦乃ち客卿通をして兵を将ゐて楚を救はしむ。三国兵を引きて去る。二十七年、秦の大夫に私かに楚の太子と闘ふ者有り。楚の太子之を殺して亡げ帰る。二十八年、秦乃ち斉・韓・魏と共に楚を攻め、楚の将唐眛を殺し、我が重丘を取りて去る。二十九年、秦復た楚を攻め、大いに楚を破る。楚の軍死する者二万、我が将軍景缺を殺す。懐王恐れ、乃ち太子をして斉に質たらしめて以て平らがんことを求む。三十年、秦復た楚を伐ち、八城を取る。秦の昭王楚王に書を遺りて曰く、「始め寡人王と約して弟兄と為り、黄棘に盟ひ、太子質と為り、至って驩しかりき。

現代語訳

秦が韓の宜陽を破ったのに、韓がなおも秦に仕えているのは、韓の先王の墓が平陽にあり、秦の武遂がそこから七十里しか離れていないためだ。だから韓はことさらに秦を恐れている。そうでなければ、秦が三川を攻め、趙が上党を攻め、楚が河外を攻めれば、韓は必ず滅びるだろう。楚が韓を救っても、韓を滅亡から救いきることはできないが、それでも韓を存続させているのは楚なのだ。韓はすでに秦から武遂を取り戻し、黄河と山々を要害として守りを固めている。恩に報いる相手として、楚ほど厚い恩のある国はない。私は、韓は必ず急いで王に仕えるようになると思う。斉が韓に信頼されているのは、韓の公子眛が斉の宰相となっているからだ。韓はすでに秦から武遂を得ている。王は韓と深く親しくし、韓に斉と韓の重みを使って樗里疾を重んじさせるとよい。樗里疾が斉と韓の後ろ盾を得れば、その主君(秦王)も樗里疾を見捨てられない。そこへさらに楚の重みも加えれば、樗里子は必ず秦王に進言して、楚から奪った土地を返させるだろう」。そこで懐王はこの策を受け入れ、結局秦とは手を結ばず、斉と結んで韓と親しくした。二十四年、楚は斉に背いて秦と手を結んだ。秦の昭王が即位したばかりで、楚に手厚く贈り物をしたので、楚は秦から妻を迎えた。二十五年、懐王は秦に入って昭王と盟約を結び、黄棘で約束を交わした。秦は再び楚に上庸を返した。二十六年、斉・韓・魏は、楚が合従の親交に背いて秦と手を結んだことを理由に、三国で共に楚を攻めた。楚は太子を秦に人質として送り、救援を求めた。秦は客卿の通に兵を率いさせて楚を救わせ、三国は兵を引いた。二十七年、秦の大夫にひそかに楚の太子と争った者がいた。楚の太子はその大夫を殺して、逃げて楚に帰った。二十八年、秦は斉・韓・魏とともに楚を攻め、楚の将軍の唐眛を殺し、重丘を取って去った。二十九年、秦は再び楚を攻めて大いに破り、楚軍の死者は二万人にのぼり、将軍の景缺も殺された。懐王は恐れて、太子を斉に人質として送り、和睦を求めた。三十年、秦は再び楚を攻めて八つの城を取った。秦の昭王は楚王に手紙を送って言った。「はじめ私は王と兄弟の約束を結び、黄棘で盟約を交わし、太子を人質として送ってくださり、この上なく親しい間柄であった。

解説

楚の懐王の外交が、秦と斉の間で振り子のように揺れ動き、そのたびに楚が痛手を負う段です。昭雎は、韓が秦に仕えるのは先王の墓が秦の近くにあるからだと分析し、韓と斉を後ろ盾にして秦の重臣樗里疾に働きかければ、奪われた土地を取り戻せると説きました。懐王は一度はこの策を採って斉と結びますが、数年後には秦の昭王の手厚い贈り物に応じて斉に背き、秦と黄棘で盟約を結びます。すると今度は斉・韓・魏の三国に攻められ、太子を秦に人質に出して救いを求めました。ところがその太子が秦の大夫を殺して逃げ帰ったことで、秦・斉・韓・魏の四国に攻められ、将軍を次々に失い、今度は太子を斉に人質に出すありさまです。方針を変えるたびに、かつての味方を敵に回していく懐王の姿は、場当たり的な判断の代償の大きさを示しています。取引先や協力関係を目先の利益で乗り換えていくと、最後には誰からも信頼されなくなるのです。

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る