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史記 / 秦本紀

於是繆公虜晉君以歸,令於國,齊宿,吾將以晉君祠上帝。周天子聞之,曰「晉我同姓」,為請晉君。夷吾姊亦為繆公夫人,夫人聞之,乃衰絰跣,曰:「妾兄弟不能相救,以辱君命。」繆公曰:「我得晉君以為功,今天子為請,夫人是憂。」乃與晉君盟,許歸之,更舍上舍,而饋之七牢。十一月,歸晉君夷吾,夷吾獻其河西地,使太子圉為質於秦。秦妻子圉以宗女。是時秦地東至河。十八年,齊桓公卒。二十年,秦滅梁、芮。二十二年,晉公子圉聞晉君病,曰:「梁,我母家也,而秦滅之。我兄弟多,即君百歲後,秦必留我,而晉輕,亦更立他子。」子圉乃亡歸晉。二十三年,晉惠公卒,子圉立為君。秦怨圉亡去,乃迎晉公子重耳於楚,而妻以故子圉妻。重耳初謝,後乃受。繆公益禮厚遇之。二十四年春,秦使人告晉大臣,欲入重耳。晉許之,於是使人送重耳。二月,重耳立為晉君,是為文公。文公使人殺子圉。子圉是為懷公。其秋,周襄王弟帶以翟伐王,王出居鄭。二十五年,周王使人告難於晉、秦。秦繆公將兵助晉文公入襄王,殺王弟帶。二十八年,晉文公敗楚於城濮。三十年,繆公助晉文公圍鄭。鄭使人言繆公曰:「亡鄭厚晉,於晉而得矣,而秦未有利。晉之彊,秦之憂也。」繆公乃罷兵歸。晉亦罷。

新字:於是繆公虜晋君以帰,令於国,斉宿,吾将以晋君祠上帝。周天子聞之,曰「晋我同姓」,為請晋君。夷吾姊亦為繆公夫人,夫人聞之,乃衰絰跣,曰:「妾兄弟不能相救,以辱君命。」繆公曰:「我得晋君以為功,今天子為請,夫人是憂。」乃与晋君盟,許帰之,更舎上舎,而饋之七牢。十一月,帰晋君夷吾,夷吾献其河西地,使太子圉為質於秦。秦妻子圉以宗女。是時秦地東至河。十八年,斉桓公卒。二十年,秦滅梁、芮。二十二年,晋公子圉聞晋君病,曰:「梁,我母家也,而秦滅之。我兄弟多,即君百歳後,秦必留我,而晋軽,亦更立他子。」子圉乃亡帰晋。二十三年,晋恵公卒,子圉立為君。秦怨圉亡去,乃迎晋公子重耳於楚,而妻以故子圉妻。重耳初謝,後乃受。繆公益礼厚遇之。二十四年春,秦使人告晋大臣,欲入重耳。晋許之,於是使人送重耳。二月,重耳立為晋君,是為文公。文公使人殺子圉。子圉是為懐公。其秋,周襄王弟帯以翟伐王,王出居鄭。二十五年,周王使人告難於晋、秦。秦繆公将兵助晋文公入襄王,殺王弟帯。二十八年,晋文公敗楚於城濮。三十年,繆公助晋文公囲鄭。鄭使人言繆公曰:「亡鄭厚晋,於晋而得矣,而秦未有利。晋之彊,秦之憂也。」繆公乃罷兵帰。晋亦罷。

書き下し

是に於て繆公晋君を虜にして以て帰り、国に令す、「斉宿せよ、吾将に晋君を以て上帝を祠らんとす」と。周の天子之を聞きて、曰く「晋は我が同姓なり」と、為に晋君を請ふ。夷吾の姊も亦繆公の夫人為り。夫人之を聞き、乃ち衰絰して跣し、曰く、「妾が兄弟相救ふ能はず、以て君命を辱めしむ」と。繆公曰く、「我晋君を得て以て功と為す。今天子為に請ひ、夫人是れ憂ふ」と。乃ち晋君と盟ひ、之を帰すことを許し、更めて上舎に舎せしめ、而して之に七牢を饋る。十一月、晋君夷吾を帰す。夷吾其の河西の地を献じ、太子圉をして秦に質たらしむ。秦子圉に妻はすに宗女を以てす。是の時秦の地東のかた河に至る。十八年、斉の桓公卒す。二十年、秦梁・芮を滅ぼす。二十二年、晋の公子圉晋君の病むを聞きて、曰く、「梁は、我が母の家なり。而るに秦之を滅ぼす。我兄弟多し、即し君百歳の後、秦必ず我を留めん。而して晋我を軽んじ、亦更に他子を立てん」と。子圉乃ち亡げて晋に帰る。二十三年、晋の恵公卒し、子圉立ちて君と為る。秦圉の亡げ去りしを怨み、乃ち晋の公子重耳を楚より迎へ、而して妻はすに故の子圉の妻を以てす。重耳初め謝し、後乃ち受く。繆公益礼して厚く之を遇す。二十四年春、秦人をして晋の大臣に告げしめ、重耳を入れんと欲す。晋之を許す。是に於て人をして重耳を送らしむ。二月、重耳立ちて晋君と為る。是を文公と為す。文公人をして子圉を殺さしむ。子圉は是を懐公と為す。其の秋、周の襄王の弟帯翟を以て王を伐ち、王出でて鄭に居る。二十五年、周王人をして難を晋・秦に告げしむ。秦の繆公兵を将ゐて晋の文公を助けて襄王を入れ、王の弟帯を殺す。二十八年、晋の文公楚を城濮に敗る。三十年、繆公晋の文公を助けて鄭を囲む。鄭人をして繆公に言はしめて曰く、「鄭を亡ぼして晋を厚くするは、晋に於ては得たり、而るに秦は未だ利有らず。晋の彊きは、秦の憂ひなり」と。繆公乃ち兵を罷めて帰る。晋も亦罷む。

現代語訳

こうして穆公は晋の君主を捕虜にして帰り、国中に命じた。「身を清めて斎戒せよ。私は晋の君主を犠牲にして上帝を祭るつもりだ。」周の天子はこれを聞いて「晋は私と同じ姫姓の国だ」と言い、晋の君主の助命を求めた。夷吾の姉も穆公の夫人であった。夫人はこれを聞くと、喪服をまとい裸足になって言った。「私の兄弟が互いに助け合えず、君のご命令を辱める結果となってしまった。」穆公は言った。「私は晋の君主を捕らえたことを手柄と思っていた。ところが今、天子が助命を求め、夫人もこれほど心を痛めている。」そこで晋の君主と盟約を結んで帰国を許し、上等の宿舎に移して、牛・羊・豚を七組ずつ贈ってもてなした。十一月、晋の君主夷吾を帰国させた。夷吾は河西の地を献上し、太子の圉を人質として秦に送った。秦は子圉に一族の娘を嫁がせた。このとき秦の領地は東の黄河にまで達した。十八年、斉の桓公が亡くなった。二十年、秦は梁と芮を滅ぼした。二十二年、晋の公子圉は晋の君主が病気だと聞いて言った。「梁は私の母の実家なのに、秦はそれを滅ぼした。私には兄弟が多い。もし父君が亡くなれば、秦は必ず私を引き留めるだろう。そうなれば晋は私を軽んじ、ほかの子を立てるであろう。」子圉はそこで秦から逃げて晋に帰った。二十三年、晋の恵公が亡くなり、子圉が立って君主となった。秦は子圉が逃げ去ったことを恨み、晋の公子重耳を楚から迎え、もと子圉の妻であった女性を重耳に嫁がせた。重耳ははじめ辞退したが、のちに受け入れた。穆公はますます礼を尽くして手厚くもてなした。二十四年の春、秦は人を遣わして晋の大臣たちに重耳を入国させたいと告げた。晋はこれを承知した。そこで人をつけて重耳を送った。二月、重耳は立って晋の君主となった。これが文公である。文公は人を遣わして子圉を殺させた。子圉を懐公という。その秋、周の襄王の弟の帯が翟の兵を使って王を攻め、王は都を出て鄭に身を寄せた。二十五年、周王は人を遣わして晋と秦に危急を告げた。秦の穆公は兵を率いて晋の文公を助け、襄王を都に戻し、王の弟の帯を殺した。二十八年、晋の文公は城濮で楚を破った。三十年、穆公は晋の文公を助けて鄭を包囲した。鄭は人を遣わして穆公に言わせた。「鄭を滅ぼして晋を豊かにしても、晋は得をするが、秦には何の利益もない。晋が強くなることは、秦にとっての憂いである。」穆公はそこで兵を引いて帰った。晋も兵を引いた。

解説

韓原の戦いの後、秦が晋との関係を巧みに操りながら勢力を伸ばしていく段です。穆公は捕らえた晋の恵公を天に捧げる犠牲にしようとしましたが、周の天子と、恵公の姉である自分の夫人の嘆願を受けて許し、手厚くもてなして帰国させました。その見返りに河西の地を得て、秦の領土は黄河に達します。その後、人質の子圉が逃げ帰ると、穆公は放浪中の重耳を楚から迎えて晋の君主に据えました。これが春秋五覇の一人、晋の文公です。敵の君主を許して実利を取り、隣国の君主まで自ら選んで立てるという、したたかな外交でした。段の最後では、鄭の使者が「鄭を滅ぼしても晋が強くなるだけで、秦の得にはならない」と説き、穆公は兵を引きます。同盟相手と組んでいても、その成果が誰の利益になるかを冷静に見極める必要があるという教訓です。感情ではなく実利で動く判断力が、秦を強国へと押し上げていきました。

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