玉勝間 / 十一の巻 諏訪の縁起絵
同記云、同十一月廿六日、參伏見殿、候宮御方御讀、大御所有御出座、及御雜談。諏方緣起繪事、有次申上候處、未被御覽之繪也。致媒介可借進之由被仰畢。可申試之由申上、云云。同十二月一日、諏方緣起之繪、(十二卷)可借進之由、自伏見殿被仰。諏方將監候間、其由予令傳仰。今日持來之間、卽同道參伏見殿、件緣起辛櫃、借進-上之。庭田少將被取〓繼之、被悅思食之由有仰、金覆輪一振被下諏方。件緣起外題、後光嚴院殿被遊之、等持院殿毎奧被載御名字者也。予去夏比、於伊勢兵庫助拜見。
新字:同記云、同十一月廿六日、参伏見殿、候宮御方御読、大御所有御出座、及御雑談。諏方縁起絵事、有次申上候処、未被御覧之絵也。致媒介可借進之由被仰畢。可申試之由申上、云云。同十二月一日、諏方縁起之絵、(十二巻)可借進之由、自伏見殿被仰。諏方将監候間、其由予令伝仰。今日持来之間、即同道参伏見殿、件縁起辛櫃、借進-上之。庭田少将被取〓継之、被悦思食之由有仰、金覆輪一振被下諏方。件縁起外題、後光厳院殿被遊之、等持院殿毎奥被載御名字者也。予去夏比、於伊勢兵庫助拝見。
書き下し
同記に云わく、同十一月廿六日、伏見殿に参る、宮の御方の御読に候す、大御所御出座有りて、御雑談に及ぶ。諏方縁起絵の事、次いで有りて申し上げ候処、未だ御覧ぜられざる絵なり。媒介を致して借り進ずべきの由仰せられおわんぬ。申し試むべきの由申し上ぐ、云云。同十二月一日、諏方縁起の絵(十二巻)、借り進ずべきの由、伏見殿より仰せらる。諏方将監候う間、その由予仰せを伝えしむ。今日持ち来るの間、即ち同道して伏見殿に参り、件の縁起の辛櫃、これを借り進上す。庭田少将〓これを継がれ、悦び思し召さるるの由仰せ有り、金覆輪一振諏方に下さる。件の縁起の外題、後光厳院殿これを遊ばされ、等持院殿毎奥に御名字を載せらるる者なり。予去る夏の比、伊勢兵庫助において拝見す。
現代語訳
同じ記にこうある。同年十一月二十六日、伏見殿(伏見宮家)に参り、宮様の御進講にお仕えした。大御所がお出ましになり、雑談に及んだ。『諏方縁起』の絵のことを、ついでがあって申し上げたところ、まだご覧になったことのない絵であった。仲立ちをして借りて差し上げよ、と仰せになった。申し入れてみます、と申し上げた、とのことである。同十二月一日、『諏方縁起』の絵(十二巻)を借りて差し上げよと、伏見殿から仰せがあった。諏方将監が伺候していたので、私がその旨の仰せを伝えた。今日持って来たので、すぐに同道して伏見殿に参り、その縁起を納めた辛櫃を借りて進上した。庭田少将がこれを取り次がれ、お喜びになっているとの仰せがあって、金覆輪の太刀一振が諏方に下された。この縁起の外題(表紙の題)は後光厳院がお書きになり、等持院殿(足利尊氏)が各巻の奥に御名字を記されたものである。私は去る夏のころ、伊勢兵庫助のもとで拝見したことがある。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十二の巻 開帳と云ふわざ同じ記に、文安元年十月二日、栂尾の春日大明神の御影、御帳これを開かる。南都大乗院所望申さるれば、これを開かる。この次に所望の族、上下道俗男女、拝見子細無きの由、兼ねてその聞こえ有るの間、大外史並びに蔵氷等を伴い奉りて、今日参り、拝見せしめ了んぬ。その儀、開帳有り、寺家の衆講論の儀式有り。その後南都の衆、法楽有るの後、大乗院殿御拝見有り、御退出の後、諸人群集し、頗る狼藉の体なり。栂尾の本堂より、遥か東に倚りて、檜皮葺の堂一宇有り、(南面なり)春日の御影、西向きにこれを懸け奉る。絵像、住吉の御影かれこれ、両舗なり。殊勝云云と見えたり。今の世の開帳と云う事のさまなり。目録に、栂の尾開帳の事とあるは、後に書きたる物なるべし。
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『玉勝間』十一の巻 告文清書世尊寺家口伝中原康富記に云わく、嘉吉二年十月九日、世尊寺三位(行豊卿)の亭に参る、いささか中風の気ありて対面に及ばず、子息侍従行賢を以て、申し承り了んぬ。殿下より、多武峰の御告文清書の事、仰せ下され候間、書様並びに文字の分量等、委しく口伝すべきの由、これを申さしむ、委細拾遺を以てこれを示さる。また侍従存知の分、これを授けらる、御位署は書き切るべからざるなり。また不吉の字は、墨を薄く細く書くべきなり。吉字は、墨黒に書くべく候。仮令不吉の字は、火災禍難灰燼死兵乱病、これらの類なり。吉字は、福徳寿命などの字の類なり。命などの字は、分よりも長く、書くべきなり。またよき唐墨は、前の日かねてより、摺りためて置く宜しきなり。なかなか悪ろき墨は、にわかにすりたてたる善きなり云云。筆の事、ふくさ紙には、鹿の毛、打紙には、兎の毛、強紙には、狸の毛、この〓等似合いて善きなりと云云。御告文、高檀紙のふくさ紙ならば、鹿毛の筆宜しかるべきの由これを示さる。御告文は、一段神事しく書くべきなり云云。告文、紙二枚も有れ、三枚も有れ、続くべきなり。願書は、続けずして書くなり云云。文字のほどらい、明日給うべきの由、諾せられ、翌日三品書き給い了んぬ。予先年、今上御元服の賀表清書の事、少内記に就きて、仰せ下さるるの間、これを書き進ず、今また御告文を黷すべきの条、その憚り無きに非ずと雖も、佳例遁れ難きの故に領掌を申す者なり。その子細、委しく先年故坊城右中弁俊国の口伝を受け了んぬ。然りと雖も、重ねてまた今日、世尊寺三品の家説を授かり了んぬ。大廟に入りて事ごとに問うの謂いか。
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『玉勝間』十二の巻 事代主ノ神と建御名方ノ神との御事事代主の神と建御名方の神とは、ともに大国主の神の御子にて、ことに威勢盛りなる神におわせしを、事代主の神は、天つ神の詔命をかしこみて、すみやかに服い給いて、永く皇御孫の命のやんごとなき守り神として、大倭の国に、飛鳥・高市・葛城など、所々に鎮まり坐して、朝廷より重く社り給い、神祇官の八柱の神の中にも、祭り給えり。建御名方の神は、大命にしたがい給わざりしを、信濃の国の諏訪まで、追い攻めて、殺さむとせし時に、この処をおきて他処には行かじ、命たすけ給えと、のみ申し給えりき。さればこそ建御名方の神は、古には、かの信濃の諏訪・水内などをはなちて、他には祭る社もおさおさ聞えざりしか。然るに今の世の中には、諏訪と号けて、この神を祭る社、国々にここかしこに有りて信濃なるは更にも云わず、その社いずれも、ほどほどに栄え給うを、事代主の神を祭る社は、古のも皆衰え給い、その外には、後にいわえる社も、おさおさ聞えざるなり。そもそも天つ神の詔命にしたがい給いて、朝廷の御守り神となり給える神の御社は、みな然おとろえ坐して、詔命にしたがい給わざりし神の御社しも、多くなりて、栄えますは、如何なる事にか有らむ。神の御しわざは、世にことわりはかり難き物にぞ有りける。されどこは、いささか思い合わさるる事、無きにしもあらずなむ。
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『玉勝間』十一の巻 多武ノ峰の額の事同記に云わく、享徳三年十二月三日、召しに依りて殿下に参る、仰せられて云わく。多武峰造営候間、額の事殿下に申し入るる者なり。後京極摂政御職の時、御自筆にこれを染めらる、殿下御筆を染めらるべきの由、これを申すと雖も、御右筆の儀、御能書に非ず、家の仁に仰せてこれを書かるべきの由、仰せらるるの処、寺家子細無きの由、申すの間、世尊寺三位伊忠卿に仰せらるべきなり、御使として、罷り向かうべきの由これを仰せらる。額三つあり。一つは一百余所とあり、神前に懸くべきなり、鎮守の前か。一つは妙楽寺とあり、大講堂の事なり。一つは聖霊院とあり、大職冠の御影安置の御廟なり云云。即ち世尊寺に向かい、侍従三位に対面せしめ、執柄の仰せの趣を、演説せしむ、返答して云わく。妙楽寺聖霊院の額二つの事は、書き進ずべきなり。紙に書きて後、金に彫りて板に打たるるなり、妙楽寺の額もこの分なり。神前の一百余所と申す額は、黒き板に、胡粉をもて白くこれを書かる、我が身重服の中たり、(今年四月父行豊逝去、一回の中なり、)但しいかがたるべく候や、時儀有るべく候の由申さる。この返答もっともなり。掃部頭師富、座席において参会す。三品の縁者なり。この後殿下に帰参し、彼の返事を申し入れ了んぬ。顕〓朝臣伺候せらる、一盞を賜り、退出し了んぬ。明日また罷り向かうべきの由、これを仰せらる。重服たりと雖も、憚り有るべからず、ただ書き進ずべきの由、これを仰せらる。世尊寺三品語られて云わく、後京極摂政殿御能書の間、額これを遊ばさる、然りと雖も御口伝無きの間、その咎有り、後悔有り、更に額書写の御相承有りと云云。この事東鏡という記にこれ有りと云云、と同記に見えたり。
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『玉勝間』一の巻 神拝口伝といふ事同記に云う、文明十二年十二月二日、吉田社に参詣す、兼倶卿の宿所咫尺の間、立ち寄りて日本紀御談義に参る事を賀す、対面して相語りて云う、神拝口伝の事、諸家競いて御尋ね有り、然るに此の六七十年以来、一向に問わるる事無し、諸家敬神無きか云々、余は敬神他に異なる以来、次いで授くべしと云々、則ち之を口伝す。三日、状を吉田神主に遣わす、昨日の面談、千載一遇たり候、殊に神拝御口伝の事、深く心中に秘し候、恩許手足の舞踏を知らず候、欣悦の余り、重ねて参り申すべきの処、遅々、先ず短章を献じ候、何様連々神道の事、御指南を仰ぐべく候、恐々謹言、宣胤、十二月三日、吉田殿。
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『玉勝間』一の巻 三社の託宣といふ物同記に曰く、文亀二年二月十日、侍従二位(兼倶卿)所望の三社託宣、并びに天神の名号、云々。以上今日之を書きて之を遣わす、また、同十七日、三社託宣一幅、兼永朝臣の所望にて之を書く。
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