春秋左氏伝 / 昭公十三年 奥主有り、外援無し
下善齊肅。不藏賄。不從欲。施舍不倦。求善不厭。是以有國。不亦宜乎。我先君文公。狐季姬之子也。有寵於獻。好學而不貳。生十七年。有士五人。有先大夫子餘。子犯。以為腹心。有魏犨。賈佗。以為股肱。有齊。宋。秦。楚。以為外主。有欒。郤。狐。先。以為内主。亡十九年。守志彌篤。惠懷棄民。民從而與之。獻無異親。民無異望。天方相晉。將何以代文。此二君者。異於子干。共有寵子。國有奧主。無施於民。無援於外。去晉而不送。歸楚而不逆。何以冀國。晉成虒祁。諸侯朝而歸者。皆有貳心。為取郠故。晉將以諸侯來討。叔向曰。諸侯不可以不示威。乃並徵會告于吳。
新字:下善斉粛。不蔵賄。不従欲。施舎不倦。求善不厭。是以有国。不亦宜乎。我先君文公。狐季姫之子也。有寵於献。好学而不貳。生十七年。有士五人。有先大夫子余。子犯。以為腹心。有魏犨。賈佗。以為股肱。有斉。宋。秦。楚。以為外主。有欒。郤。狐。先。以為内主。亡十九年。守志弥篤。恵懐棄民。民従而与之。献無異親。民無異望。天方相晋。将何以代文。此二君者。異於子干。共有寵子。国有奥主。無施於民。無援於外。去晋而不送。帰楚而不逆。何以冀国。晋成虒祁。諸侯朝而帰者。皆有貳心。為取郠故。晋将以諸侯来討。叔向曰。諸侯不可以不示威。乃並徴会告于呉。
書き下し
善に下りて齊肅、賄を藏せず、欲に從はず、施舍して倦まず、善を求めて厭かず。是を以って國を有つ、亦た宜ならずや。我が先君文公は、狐季姬の子なり。獻に寵有り。學を好みて貳はず。生まれて十七年、士五人有り。先大夫子餘・子犯有りて、以って腹心と為す。魏犨・賈佗有りて、以って股肱と為す。齊・宋・秦・楚有りて、以って外主と為す。欒・郤・狐・先有りて、以って内主と為す。亡ぐること十九年、志を守ること彌々篤し。惠・懷民を棄て、民從ひて之に與す。獻に異親無く、民に異望無し。天方に晉を相く。將た何を以ってか文に代へん。此の二君は、子干に異なり。共には寵子有り、國には奧主有り。民に施す無く、外に援無し。晉を去れども送らず、楚に歸れども逆へず。何を以ってか國を冀はん」と。晉虒祁を成す。諸侯の朝して歸る者、皆貳心有り。郠を取るが為の故に、晉將に諸侯を以って來り討たんとす。叔向曰く、「諸侯以って威を示さざる可からず」と。乃ち並びに會を徵して吳に告ぐ。
現代語訳
善い人にはへりくだって慎み深く、財貨をため込まず、欲望に流されず、施しをして倦むことがなく、善を求めて飽くことがありませんでした。だから国を保ったのも当然ではありませんか。わが先君の文公は、狐季姫の子で、父の献公に寵愛されていました。学問を好んで心がぶれませんでした。十七歳にして五人の士がついていました。先大夫の子余(趙衰)と子犯(狐偃)が腹心となり、魏犨と賈佗が手足となりました。斉・宋・秦・楚が国外の後ろ盾となり、欒・郤・狐・先の諸氏が国内の後ろ盾となりました。十九年亡命していても、志を守ることはますます固くなりました。恵公と懐公は民を見捨てたので、民は文公に従い味方しました。献公には(文公のほかに)親しむべき子はもういなくなり、民にもほかに望みをかける者はいませんでした。天がちょうど晋を助けていたのです。何者が文公に代わりえたでしょう。この二人の君は子干とは違います。子干の場合、共王にはほかにも寵愛する子がおり、国内にはすでに深く根を張った主(棄疾)がいます。民に施したこともなく、国外に援助もありません。晋を去るときには誰も見送らず、楚に帰っても誰も出迎えません。どうして国を望めましょう」。晋では虒祁の宮殿が完成した。諸侯で朝見に来て帰った者は、みな晋に背く心を抱いていた。魯が莒の郠を取ったことを理由に、晋は諸侯を率いて魯を討とうとした。叔向は言った。「諸侯には威を示しておかなければならない」。そこで諸侯に会合への参加を求め、あわせて呉にも通告した。
解説
この章句が説くこと
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『玉勝間』十一の巻 高麗人来朝同記に云わく、同三年五月六日、肥前入道語りて云わく。近日高麗人来朝すべきなり。先々要脚を諸大名に懸け仰せられてこれを出ださるるの処、今の時分諸大名、諸国役出銭叶うべからざるの間、高麗人京都に入れ立てらるべからず、追い返さるべきなり。その間の事、管領畠山存ぜられ候間、諸大名一揆して、高麗人を返さるべきなり。いかようたるべきやと、意見を密々に〓大外記に談合するの由これを語る。唐船は誠に日本に入るべからざるの由、先々御沙汰有るか。高麗人に於いては、既に神功皇后御退治以後、来服の三韓の随一なり。高麗相通ずるは、神慮に叶うべきなり。入るべからざるの由、今更仰せらるるは、後年の煩いたるべきか、いかにして返さるべく候や、所詮上古往昔来朝の貢賦なり、近来は商売のために入来する所有るなり。然らば牒状の文章、上古に違うか、古今の牒状を取り集め見合わせて、文章の咎に就きて、高麗人を返さるべきの由、外史の意見か云云。六月十九日、この日高麗人室町殿に参り、御目に懸くる者なり。当御代初度、かつ普広院殿の喪を弔い奉るの由の聘使なり云云。官人の名尋ね注すべし。その儀おのおの乗馬なり、布衣に笠を着く云云。その数五十騎ばかりに及ぶ数云云。路次に楽を作す、或いは馬上にこれを操る、笛一人、鼓一人、琵琶一人、鉦鼓一人、その外吹物二人これ有り云云。進上物・牒状、尋ね注すべし。東山双林寺の傍ら景雲庵を、休所と為す云云。三条東洞院を北へ行き、中御門を西へ行き、室町を北へ行き、御所の総門に参る云云。供給の食物の事、先規の如く千代徳殿(新〓殿勘解由小路殿)下行を致さる云云。
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