玉勝間 / 十一の巻 天皇御腫物御針をたて奉る事
同記云、同十七日、參〓史亭、禁裏御不豫事、驚入之由申談云云。被談云、禁裏御腫物者、遮也。腫物醫師久阿已下、一昨日十五日、始拜-見之。御療養難儀之由申之間、自管領畠山方、下〓ト云醫師ヲ、被召進之處、御針ヲバ、玉躰ニ憚候間、如何可仕哉之由申、旣下郷欲退出之間、三條中納言中山中納言等、談合ありて、此事如何可然哉云云。〓史同被參候云云。本朝針博士被置者、加樣時御用の爲也。何事必不可進針之由可申哉、所詮爲權道之間、御針不可苦歟之由、各評定被〓。仍下〓御針ヲタテマイラスト云云。本道之醫師中ニ、當時無針之名譽、可云道之零落歟。
新字:同記云、同十七日、参〓史亭、禁裏御不予事、驚入之由申談云云。被談云、禁裏御腫物者、遮也。腫物医師久阿已下、一昨日十五日、始拝-見之。御療養難儀之由申之間、自管領畠山方、下〓ト云医師ヲ、被召進之処、御針ヲバ、玉体ニ憚候間、如何可仕哉之由申、既下郷欲退出之間、三条中納言中山中納言等、談合ありて、此事如何可然哉云云。〓史同被参候云云。本朝針博士被置者、加様時御用の為也。何事必不可進針之由可申哉、所詮為権道之間、御針不可苦歟之由、各評定被〓。仍下〓御針ヲタテマイラスト云云。本道之医師中ニ、当時無針之名誉、可云道之零落歟。
書き下し
同記に云わく、同十七日、〓史の亭に参る、禁裏御不予の事、驚き入るの由申し談ず云云。談ぜられて云わく、禁裏の御腫物は、遮なり。腫物医師久阿以下、一昨日十五日、始めてこれを拝見す。御療養難儀の由申すの間、管領畠山方より、下〓という医師を、召し進ぜらるるの処、御針をば、玉体に憚り候間、いかが仕るべきやの由申し、既に下郷して退出せんと欲するの間、三条中納言中山中納言等、談合ありて、この事いかが然るべきや云云。〓史同じく参らせ候云云。本朝に針博士置かるるは、かようの時の御用のためなり。何事ぞ必ず針を進ずべからざるの由申すべきや、所詮権道たるの間、御針苦しかるべからざるかの由、おのおの評定〓せらる。よって下〓御針をたてまいらすと云云。本道の医師の中に、当時針の名誉無し、道の零落と云うべきか。
現代語訳
同じ記(『康富記』)にこうある。同じ月の十七日、某史(一字欠く。外史=大外記か)の邸に参り、天皇がご病気であることに驚いている旨を話し合った。その方が語られるには、天皇の腫物は「遮」(意味未詳)である。腫物の医師久阿以下が、一昨日の十五日に初めて拝見した。ご治療は難しいと申し上げたので、管領畠山の方から、下〓という医師を召して差し出したところ、御針(鍼で切開すること)は、天皇の玉体に憚りがあるので、どうしたものでしょうかと申して、もう郷里へ下って退出しようとしたので、三条中納言・中山中納言らが相談して、このことをどうするのがよいか、ということになった。某史も同じく参上された、とのことである。わが国に針博士が置かれているのは、こういう時のお役に立てるためである。どうして必ず針を差し上げてはならないなどと申すべきだろうか、結局は非常の場合の便法なのだから、御針を施しても差し支えなかろう、と各人が評定された。そこで下〓が御針をお立て申し上げた、とのことである。本道(内科)の医師の中に、今は針の名手がいない。医道の衰えと言うべきであろうか。
解説
関連する章句
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『玉勝間』八の巻 東宮御炙治増鏡に、後宇多の天皇の、いまだ東宮におわしましける程、御病の時、くすしの申すによりて、御灸治の事有べき由を云える所に、いまだ例無き事は、いかが有べきと、定めかねらる。位にては、ただ一たびためし有けり。春宮にては、いまださるためし無かりけれど、いかがはせむとて、おぼし定むと有り。高倉の天皇厳島御幸の記に、御灸の事見えて、さきの巻に引出たり。ただ一たびためし有とは、是れを申せるにや。されどこれは、御位のほどには有らず、おりいさせ給いて後なり。
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『玉勝間』五の巻 太上皇の御灸治土御門の内大臣通親公の書き給える、厳島御幸の道の記に、御幸かえらせ給いて後の所に云わく、かくて御痩せもただならずなど聞えて、くすしども申しすすめて、御きゅうじなどぞきこえし、と有り。帝の御灸治めずらし。
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『玉勝間』八の巻 狐つかひ中原康富記に云う、応永二十七年九月十日丙子、今朝室町殿の医師高天禁獄せらる、父子弟等三人なり云云、此の間狐を仕うの沙汰風聞す、然して昨日御台の御方に於て、験者に仰せて加持せらるるの処、二疋御所より逃げ出ず、則ち件の狐を縛られて後、打ち殺さる、此の事に依りて、高天が狐を詛い付け奉るの条、露顕す云云、仍て今朝召し取らる云云、昼程又陰陽助定棟朝臣を召し取らる、是れも狐を仕うの由、虚説有り云云、末代の作法、浅間敷浅間敷、同じく十月九日甲辰、後に聞く、囚人高天、昨日讃岐国に流さる、俊経朝臣同じ国に之を流さる云云、是等皆狐仕いの輩なり。
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『玉勝間』一の巻 中御門宣胤卿の記また曰く、同十二月二十日云々。時に皇居は土御門殿なり、乱後修理有り、去年十二月七日、日野侍従政資の亭より還幸す。また、文亀二年正月一日(乙亥)節会、世乱以後、長享三年に至るまで、廿二年退転す、延徳二年再興す、近年また退転す、当年代始に依りて、御再興せらるる所なり、去年は諒闇に依りて平座たり。また、同二日、去夜勧修寺中納言、回覧の折紙を以て、年始歳末の礼参らしめざる者は、知行覚悟有るべきの由、室町殿仰せ候、当代大略参らざるの間、此の御沙汰に及ぶ。この年始歳末の礼は、室町殿へ、公卿たちの参らるる事なり。覚悟有るべしとは、今の世の語にも、覚悟せられよと云うと同じ、また曰く、同二月十日、去年越前に下し遣わす使者、今日上る、遅々以ての外の事なり、河合荘(内裏御料所)御年貢三千疋、知行分杣山荘分三千疋(乱以前は請切万四千疋なり)到来す。など有り。これらは、書ども読むとて、ふと心にとどまるふし共の有るを、これかれと、いささかづつぬき出でて書けるなり。乱れたりし世ほど、何事もいたく衰えたりしさましるせるを読めば、いと悲しくて、ほとほと涙も落ちぬかし。今云々と書けるに二よう有り。そはまづ云々とは、古き書共には、語をはぶきたる所に書けるを、中昔より近き世の物には、となりと云えりなど云うべき所に書けり。
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『玉勝間』十一の巻 高麗人来朝およそ今度高麗人来朝の事、未だ兵庫津に付かざるの以前、管領において評定有り。その謂は室町殿御幼稚の時分なり、諸大名国役以下、無沙汰の時節なり。かたがた無益たるかの間、日本に入れらるべからざるの由、仰せ遣わさるるの処、高麗人申して云わく、先々の如き商売の料に非ず、普広院殿御弔いのため、参洛の由候う間、それに就きて入れらるべきかの由、諸大名等評議有りて、遂に以て入れらると云云。普広院殿の御代、永享六七年の比、来朝の後、今度初めてなる者なり云云。
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『玉勝間』四の巻 天皇御院号の事土御門の内大臣通親公の、高倉院升遐の記に云わく、そのゆうべ、六はらより清閑寺にうつし奉る。殿上にてまづ後の御名の定めあるにつけても、高倉いかなる大路にて、うき名の御かたみに残り云々、と有り。後陽成天皇、元和三年八月二十六日にかくれさせ給いて、御はふりの事、日を択ばれて、九月二十日とさだまる。そのほどは、もとの御所におわしまして、御前僧夜もすがら、ひそかに法華経を読む。朝には御手洗まいり、御膳など常のごとく奉る。御院号の事、家々へ仰せられたる中に、殿下よりかむかえて奉り給えるに定められて、後陽成院と号し奉り、二十日に泉涌寺にして火葬し奉る。この御事、御ここちのほどより、御はふりまで、西洞院の時慶の卿の書かれたる、升遐の記に見えたり。
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