玉勝間 / 五の巻 太上皇の御灸治
土御門ノ内大臣通親公の書給へる、嚴島御幸の道ノ記に、御幸かへらせ給ひて後の所に云はく、かくて御痩せもただならずなど聞えて、くすしども申シすすめて、御きうぢなどぞきこえし、と有り。帝の御灸治めづらし。
新字:土御門ノ内大臣通親公の書給へる、厳島御幸の道ノ記に、御幸かへらせ給ひて後の所に云はく、かくて御痩せもただならずなど聞えて、くすしども申シすすめて、御きうぢなどぞきこえし、と有り。帝の御灸治めづらし。
書き下し
土御門の内大臣通親公の書き給える、厳島御幸の道の記に、御幸かえらせ給いて後の所に云わく、かくて御痩せもただならずなど聞えて、くすしども申しすすめて、御きゅうじなどぞきこえし、と有り。帝の御灸治めずらし。
現代語訳
土御門内大臣通親公(源通親)の書かれた厳島御幸の道の記(『高倉院厳島御幸記』)に、御幸からお帰りになった後のところで、「こうして御痩せもただごとではないなどと聞こえて、医師たちがおすすめして、お灸の治療などをなさったと聞いた」とある。上皇がお灸の治療をなさるのは珍しい。
解説
源通親の『高倉院厳島御幸記』から、上皇が灸の治療を受けた記事を拾った段である。高倉上皇は平清盛の娘徳子を中宮とした天皇で、譲位の後に厳島神社へ参詣した。その帰京後、ひどく痩せたので医師たちが灸をすすめたという。宣長は「帝の御灸治めずらし」と記す。玉体に傷をつける灸は、天皇や上皇に対しては避けられることが多かったとされ、その記録は少ない。上皇はこの翌年に若くして亡くなっている。宣長は松坂で医師を営んでいたので、医療の記事には職業柄とくに目がとまったのだろう。旅の記録の末尾に紛れた一行から、宮廷の医療の習いと、病に向き合う人の姿が見えてくる。記録の脇道に大事なことが残るという好例である。
関連する章句
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『玉勝間』八の巻 東宮御炙治増鏡に、後宇多の天皇の、いまだ東宮におわしましける程、御病の時、くすしの申すによりて、御灸治の事有べき由を云える所に、いまだ例無き事は、いかが有べきと、定めかねらる。位にては、ただ一たびためし有けり。春宮にては、いまださるためし無かりけれど、いかがはせむとて、おぼし定むと有り。高倉の天皇厳島御幸の記に、御灸の事見えて、さきの巻に引出たり。ただ一たびためし有とは、是れを申せるにや。されどこれは、御位のほどには有らず、おりいさせ給いて後なり。
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『玉勝間』十一の巻 天皇御腫物御針をたて奉る事同記に云わく、同十七日、〓史の亭に参る、禁裏御不予の事、驚き入るの由申し談ず云云。談ぜられて云わく、禁裏の御腫物は、遮なり。腫物医師久阿以下、一昨日十五日、始めてこれを拝見す。御療養難儀の由申すの間、管領畠山方より、下〓という医師を、召し進ぜらるるの処、御針をば、玉体に憚り候間、いかが仕るべきやの由申し、既に下郷して退出せんと欲するの間、三条中納言中山中納言等、談合ありて、この事いかが然るべきや云云。〓史同じく参らせ候云云。本朝に針博士置かるるは、かようの時の御用のためなり。何事ぞ必ず針を進ずべからざるの由申すべきや、所詮権道たるの間、御針苦しかるべからざるかの由、おのおの評定〓せらる。よって下〓御針をたてまいらすと云云。本道の医師の中に、当時針の名誉無し、道の零落と云うべきか。
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『玉勝間』四の巻 天皇御院号の事土御門の内大臣通親公の、高倉院升遐の記に云わく、そのゆうべ、六はらより清閑寺にうつし奉る。殿上にてまづ後の御名の定めあるにつけても、高倉いかなる大路にて、うき名の御かたみに残り云々、と有り。後陽成天皇、元和三年八月二十六日にかくれさせ給いて、御はふりの事、日を択ばれて、九月二十日とさだまる。そのほどは、もとの御所におわしまして、御前僧夜もすがら、ひそかに法華経を読む。朝には御手洗まいり、御膳など常のごとく奉る。御院号の事、家々へ仰せられたる中に、殿下よりかむかえて奉り給えるに定められて、後陽成院と号し奉り、二十日に泉涌寺にして火葬し奉る。この御事、御ここちのほどより、御はふりまで、西洞院の時慶の卿の書かれたる、升遐の記に見えたり。
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『玉勝間』十三の巻 鳥羽ノ法皇崇徳上皇熊野御幸御出立の事同記に、同二年二月五日壬辰、今日両上皇熊野に参詣せしめ給う。寅の尅御進発、権僧正覚宗、両方の御先達と為る、法皇白布の御浄衣、同じく頭巾、絹の小袈裟、御杖を持たしめ給う。上皇、白生絹の御浄衣、(狩衣袴)脛巾藁履御杖等、権中納言藤公能卿、参議同〓長朝臣、上皇の御共に扈従す、云云、三月四日辛酉、両院熊野より還御、法皇稲荷に参らしめ給わず、直ちに鳥羽殿に入御す、去る比法印円行入滅す、若しくは件の事に依るか。件の人、白河院の御子と称すと雖も、頗る疑殆有りと云云。晏駕の昔、議有りて御忌に籠らずと云云。上皇稲荷に参らしめ給い畢んぬと有り。これを見れば、熊野御幸よりかえらせ給いては、稲荷の社に詣で給いてさて御所に入らせ給う例にや有りけむ、尋ぬべし。
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『玉勝間』十四の巻 皇太子伊勢大神宮に詣給ふ御事同じく紀に、宝亀九年十月丁酉、皇太子伊勢に向かう、是より先皇太子疾に寝ね、久しく平復せず、是に至りて親ら神宮を拝す、宿禱を賽する所以なり。また延暦十年十月甲寅、是より先皇太子枕席安からず、久しく平復せず、この日伊勢大神宮に向かう、宿禱に縁るなり。十一月丁卯、皇太子伊勢大神宮より至る、これは一度の御事なりしを、史のまぎれにて、宝亀と延暦と、二度記されたるなり。いずれか正しかりけむ。今知りがたし。
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『玉勝間』十三の巻 親王宣旨の書キやう同書に、文治五、十一、十九、同記に云う、高倉院の宮宮、親王の宣旨を下さるべし、云云、御名字を宣下す、云云、壇紙一枚に書く云云、その書様、守貞惟明已上親王と為すと見ゆ。件の二つの御名、並びて各一行に書きて、已上云云は、又一行にて、少し下して書きたり。
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