玉勝間 / 十の巻 長寛三年斎王帰京
同記云、長寛三年十二月十九日酉時、前齋宮立本寮、迎左少辨行隆、王兼隆也。亥尅着逸志宿。廿日午尅立逸志驛家。廿一日、旣伊世河口、午時出御、萬事不具之故也。廿一日戌時、着伊賀山中、一宿了。無先例。迎御輿、散散引破、如薪結合持參也、凡無先例事也。廿二日戌時、着伊賀河口、廿三日、着黑太。(丈六堂云)卽一宿。抑伊賀河口仁天、寮侍武者所爲、殺平大納言河婦字衆住人致時了。已其身負手。御迎撿非違使廣綱子二人鬪亂、已突殺了。凡路次一切不措、濫行端多。廿五日、僅着和泉木津、不作御所、仍奉令宿觧艋云云、凡今度歸京散散歟、後代如何。うら書に、逸志驛家(十九日未時、令立給、宮司依辨憂助不勤事、驛家寮頭爲國司之間、假屋之御所許、自催立、不供御膳、萬事不具云云、)河口驛家、如形御所假屋許也。米四石を出云云。興折(廿日夜半)不作、山路嶮岨之間、不堪行歩、仍艱難云云。今夜不供御膳、伊賀驛家、一切不措、同在廳不相迎、經卅町宿。廿二日、伊賀神部、(無先例、駕興丁瓩弱之後、齋王御泣涕云云、)召替御輿部宿小屋(大和)二鳥居(无供給、なまり江御祓、二瀨了)梨木津召御船。おとろへたりし世の有さま、あさましなど云はむは、世のつねなり。上件の文、文字誤りもし、又脫もしたりと見えて、いかにとも讀み難きところどころあり。
新字:同記云、長寛三年十二月十九日酉時、前斎宮立本寮、迎左少弁行隆、王兼隆也。亥尅着逸志宿。廿日午尅立逸志駅家。廿一日、既伊世河口、午時出御、万事不具之故也。廿一日戌時、着伊賀山中、一宿了。無先例。迎御輿、散散引破、如薪結合持参也、凡無先例事也。廿二日戌時、着伊賀河口、廿三日、着黒太。(丈六堂云)即一宿。抑伊賀河口仁天、寮侍武者所為、殺平大納言河婦字衆住人致時了。已其身負手。御迎撿非違使広綱子二人闘乱、已突殺了。凡路次一切不措、濫行端多。廿五日、僅着和泉木津、不作御所、仍奉令宿觧艋云云、凡今度帰京散散歟、後代如何。うら書に、逸志駅家(十九日未時、令立給、宮司依弁憂助不勤事、駅家寮頭為国司之間、仮屋之御所許、自催立、不供御膳、万事不具云云、)河口駅家、如形御所仮屋許也。米四石を出云云。興折(廿日夜半)不作、山路嶮岨之間、不堪行歩、仍艱難云云。今夜不供御膳、伊賀駅家、一切不措、同在庁不相迎、経卅町宿。廿二日、伊賀神部、(無先例、駕興丁瓩弱之後、斎王御泣涕云云、)召替御輿部宿小屋(大和)二鳥居(无供給、なまり江御祓、二瀨了)梨木津召御船。おとろへたりし世の有さま、あさましなど云はむは、世のつねなり。上件の文、文字誤りもし、又脱もしたりと見えて、いかにとも読み難きところどころあり。
書き下し
同じ記に云う、長寛三年十二月十九日酉の時、前の斎宮本寮を立つ、迎えは左少弁行隆、王は兼隆なり。亥の尅逸志の宿に着く。廿日午の尅逸志の駅家を立つ。廿一日、既に伊世の河口、午の時出御、万事具わらざるの故なり。廿一日、戌の時、伊賀の山中に着き、一宿し了んぬ。先例無し。迎えの御輿、散散に引き破れ、薪を結び合わするが如くにして持参するなり、凡そ先例無き事なり。廿二日戌の時、伊賀の河口に着く、廿三日、黒太に着く。(丈六堂と云う)即ち一宿す。抑も伊賀の河口にて、寮の侍武者所の為に、平大納言の河婦字衆の住人致時を殺し了んぬ。已にその身手を負う。御迎えの検非違使広綱の子二人闘乱し、已に突き殺し了んぬ。凡そ路次一切措かず、濫行の端多し。廿五日、僅かに和泉の木津に着く、御所を作らず、仍りて觧艋に宿らしめ奉る云々、凡そ今度の帰京散散か、後代如何。うら書に、逸志の駅家(十九日未の時、立たしめ給う、宮司辨憂に依りて助けて勤めざる事、駅家は寮頭国司たるの間、仮屋の御所許り、自ら催し立つ、御膳を供せず、万事具わらず云々、)河口の駅家、形の如く御所の仮屋許りなり。米四石を出す云々。興折(廿日夜半)作らず、山路嶮岨の間、行歩に堪えず、仍りて艱難云々。今夜御膳を供せず、伊賀の駅家、一切措かず、同じく在庁相迎えず、卅町を経て宿す。廿二日、伊賀の神部、(先例無し、駕輿丁瓩弱の後、斎王御泣涕云々、)御輿を召し替え部の宿の小屋(大和)二鳥居(供給无し、なまり江の御祓、二瀬了んぬ)梨木津にて御船を召す。おとろえたりし世の有さま、あさましなど云わむは、世のつねなり。上の件の文、文字誤りもし、また脱もしたりと見えて、いかにとも読み難きところどころあり。
現代語訳
同じ記(白川顕広王記)にいう。「長寛三年十二月十九日酉の刻(午後六時頃)、前の斎宮(伊勢の斎宮を退いた斎王)が斎宮寮を出立した。迎えは左少弁藤原行隆、王は兼隆である。亥の刻(午後十時頃)に逸志(壱志)の宿に着いた。二十日午の刻(正午頃)、逸志の駅家を出立した。二十一日、すでに伊勢の河口で、午の刻に出発された。万事が整わないためである。二十一日戌の刻(午後八時頃)、伊賀の山中に着き、一泊した。先例の無いことである。迎えの御輿はひどく壊れていて、薪を結び合わせたようなありさまで持って来たのである。まったく先例の無いことである。二十二日戌の刻、伊賀の河口に着き、二十三日、黒太(丈六堂という)に着いて、そのまま一泊した。そもそも伊賀の河口で、寮の侍の武者所の者によって、平大納言の河婦字衆の住人致時が殺された。すでにその身も手傷を負った。御迎えの検非違使広綱の子二人が乱闘し、すでに突き殺してしまった。およそ道中は何一つ用意されておらず、乱暴狼藉の事が多かった。二十五日、ようやく和泉の木津に着いたが、御所を作っておらず、それで船にお泊めした云々。およそ今度の帰京はさんざんであったか。後の代はどうなることか。」裏書に、「逸志の駅家(十九日未の刻に出立された。宮司が憂いにより補佐を勤めなかったこと。駅家は斎宮寮の頭が国司であるため、仮屋の御所ばかりを自ら催して建てた。御膳を供えず、万事整わなかった云々)。河口の駅家は、形ばかりの御所の仮屋だけである。米四石を出した云々。興折(二十日夜半)は作らず、山道が険しいので歩くに堪えず、それで難儀した云々。今夜は御膳を供えず、伊賀の駅家は何一つ用意せず、同じく在庁官人も出迎えず、三十町を経て宿った。二十二日、伊賀の神部(先例無し。駕輿丁が弱り果てた後、斎王がお泣きになった云々)。御輿を召し替え、部の宿の小屋(大和)、二鳥居(供給無し。なまり江の御祓、二瀬で終える)。梨木津で御船を召した」とある。衰えた世のありさまは、あきれたなどと言うのは世の常の言い方にすぎない。上の件の文は、文字の誤りもあり、また脱落もあると見えて、どうにも読みにくい所々がある。
解説
関連する章句
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『玉勝間』三の巻 伊勢例幣使発遣参向路次事西宮記に云う、伊勢使、当日早旦沐浴す、次に禊を修す云云、次に参る、(内に生絹の袋を頸に懸け、袍の下に在り、)近例召しに依りて御前に参り、竜顔に近づき、宸筆の宣命を給う、(近代懸紙一枚を加えて封ぜらる、)使笏を授けて之を給わり、懐中に挿む、勅して曰く能く能く申し進めよ、使称唯す、次に仰せられて曰く、宣命読み了らば、神前に於いて之を焼くべし、(若し仰せられずば、殿上に出でて蔵人をして焼くべきか、将た返上すべきかの由を申さしむ、云云、)次に甲賀駅に到りて宿す、云云、十日云云、鈴鹿駅に到りて宿す、十一日、国司供給す、早旦浴殿、次に禊して路に就く、(鈴鹿川を渡ること二渡、安濃川三瀬、雲出川を渡る、)壱志駅に到りて宿す、十二日云云、伊勢の祗承、下見橋に於いて退去す、櫛田川を渡る、(大神宮の検非違使祗承すべし、)多気川にて禊す、(大神宮司祓物を儲く、)下樋小川、或いは云う鈴の声を停む、(神領と国領との界なり、)件の川は斎宮の東に在り、これに下見橋と下樋小川とを、別にある如く記せれども、下見橋すなわち下樋小川の橋なり。此川は、櫛田川多気川などより西にあり、斎宮の東に在りとあるも、たがえり。斎宮は、多気川の東なればなり。
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『玉勝間』四の巻 斎宮諸司令集解に云う、神亀五年七月二十一日の格に云う、斎宮寮、頭一人、(従五位の官)助、(正六位の官)舎人司長官一人、(従六位の官)蔵部司長官一人、(従六位の官)膳部司長官一人、(従六位の官)少允一人、(従七位の官)主神司中臣一人、(従七位の官)酒部司長一人、(従七位の官)水部司長一人、(従七位の官)殿部司長一人、(従七位の官)掃部司長、(従七位の官)膳部司判官一人、(正八位の官)大属一人、少属一人、(従八位の官)主神司忌部一人、宮主一人、(已上従八位の官)采部司長一人、(従八位の官)薬部司長一人、(従八位の官)舎人司主典一人、(大初位の官)蔵部司主典一人、(大初位の官)膳部司主典一人、(大初位の官)勅すらく前件に依れ。
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『玉勝間』四の巻 伏見天皇御即位の次第花山院・さいおんじ殿候わせ給う。かんぎょのぎしきぐせらるるほど、大しょうじのひんがしひらしきにてぞ、くごまいる。御ばいぜんは、女房もとのごとし。また大しょうじの西に、からえの御びょうぶを立てられたり。その西にて、両大納言殿御わりごひらき給うにや、そのやくそうには、五位のしきじよりふじあきよなど見え侍りつ。御ぜんはてぬれば、かんぎょなる。公卿のれち、御こしよりて召されぬれば、ずさどもよせて、またかえりまいりぬ。出車には、一のくるまに、左衛門督殿、新左衛門督殿、ははき、さぬき、二のくるまに、宮内、龍さ、ひぜん、たまき、三のくるまに、新兵衛、じぶ、みあれ、いつぬき、四のくるま、少将、少輔、宮人、いつぬき、としるせり。中務の内侍は、宮内卿永経卿のむすめなり。右の日記の文のうち、心得ぬ事まじれり、うつし誤りとおぼしきも、所々見ゆ。みな本のままに書きつ。
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『玉勝間』八の巻 伊勢勅使のとも人の数同じ書に、仁安三年十二月二十一日、伊勢大神宮炎上によりて、同じ月勅使、左大弁雅頼卿発遣、その人数は、勅使大弁子息一人、従十一人、前駈六人(従各五人)、侍五人(従各十人)、雑色六人(従各二人)、舎人四人、人夫三十人、右大史三善章貞、従二十人、史生盛久、同兼康、従各二十人、馬各五疋、官掌頼兼(同前)、弁侍二人、従各五人、馬各二疋、使部十人、従各一人と見えたり。
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『玉勝間』三の巻 選子内親王の御歌されど此みこのみの御とがにしも有らず、いともかしこく、神をば忘れ奉りて、ただひたぶるに、仏の教をとうとみ行うをのみ、いみしき事にはして、かかるすじを、かえりて心深くあわれなるわざに、なべて人も云い思う、世の中のならいなりしかばぞかし。そもそも此ひめみこは、世に大斎院と申して、円融天皇の御世、天延と云いし程より、後一条のみかどの、長元と云う頃まで、五御世にわたりて、御よわい七十に近きまで、斎におわしましければ、さばかりの御老の世まで、仏の道おこない給う事かなわぬを、心うく悲しくおぼしけむも、さる世のならいにては、御ことわりぞかし。さればさばかり仲子に御心よせて、西に向いて泣き給いし、此みこしも、あやしく長く平らかにつかうまつり給えりし事は、大神の御心にも、世の中のならいにおぼしゆるして、あわれとおぼしめしてにや有りけん。又それも、まがつひの神の、例のあやしき御心にや有りけん。
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『玉勝間』三の巻 選子内親王の御歌選子内親王、賀茂のいつきと聞こえける時に、西に向いて詠み給える、「思えども忌むとて云わぬ事なればそなたにむきて音をのみぞ泣く、詞花集に入れり。すべて伊勢賀茂の斎王の宮にては、いみしく仏を忌みて、そのすじの事は、詞に云うをだに、いましめられたる、御さだめなりき。然るに御国人は、昔より、たかきも賤しきも、かしこきも愚かなるも、おしなべて、仏の教を信ぜぬ人は、世に一人も無かりければ、いつきにい給うをば、罪深き事にして、歎き給えるならいなりき。されど神につかうまつり給う御心の、まめやかにおわせんには、その忌み嫌い給うすじをば、かけても思しよるべきわざならぬを、西に向いて、ねになき給うばかりなりしは、云わむかたなきまが事にぞ有りける。さては御かたちのかぎり、皇神のいつきにてはおわしまして、御心は、もはら極楽の阿弥陀の斎にこそおわしけれ。さるにても御心の内にこそは、おのずからさおぼす事も有らんにても、おおやけの重きいましめなれば、歌などに詠み顕わし給うべきに有らず、又たとい詠み出で給えりとも必ず人に語りなどはし給うまじきわざなるを、御はじともおぼさずや有りけん。
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