玉勝間 / 三の巻 伊勢例幣使発遣参向路次事
西宮記云、伊勢使、當日早旦沐浴、次修禊云云、次參、(內懸生絹袋於頸、在袍下、)近例依召參御前、近龍顏、給宸筆宣命、(近代加懸紙一枚被封、)使授笏給之、挿懷中、勅日能々申進、使稱唯、次被仰曰、宣命讀了、於神前可燒之、(若不被仰者、出殿上令藏人申可燒歟、將可返上歟由、云云、)次到甲賀驛宿、云云、十日云云、到鈴鹿驛宿、十一日、國司供給、早旦浴殿、次禊就路、(渡鈴鹿川二渡、安濃川三瀨、渡雲出川、)到壹志驛宿、十二日云云、伊勢祇承、於下見橋退去、渡櫛田川、(大神宮檢非違使可祗承、)多氣川禊、(大神宮司儲祓物、)下樋小川、或云停鈴聲、(神領與國領之界也、)件川在齋宮東、これに下見橋と下樋小川とを、別にある如く記せれども、下見橋すなはち下樋小川の橋なり。此川は、櫛田川多氣川などより西にあり、齋宮の東に在とあるも、たがへり。齋宮は、多氣川の東なればなり。
新字:西宮記云、伊勢使、当日早旦沐浴、次修禊云云、次参、(内懸生絹袋於頸、在袍下、)近例依召参御前、近竜顔、給宸筆宣命、(近代加懸紙一枚被封、)使授笏給之、挿懐中、勅日能々申進、使称唯、次被仰曰、宣命読了、於神前可焼之、(若不被仰者、出殿上令蔵人申可焼歟、将可返上歟由、云云、)次到甲賀駅宿、云云、十日云云、到鈴鹿駅宿、十一日、国司供給、早旦浴殿、次禊就路、(渡鈴鹿川二渡、安濃川三瀨、渡雲出川、)到壱志駅宿、十二日云云、伊勢祇承、於下見橋退去、渡櫛田川、(大神宮検非違使可祗承、)多気川禊、(大神宮司儲祓物、)下樋小川、或云停鈴声、(神領与国領之界也、)件川在斎宮東、これに下見橋と下樋小川とを、別にある如く記せれども、下見橋すなはち下樋小川の橋なり。此川は、櫛田川多気川などより西にあり、斎宮の東に在とあるも、たがへり。斎宮は、多気川の東なればなり。
書き下し
西宮記に云う、伊勢使、当日早旦沐浴す、次に禊を修す云云、次に参る、(内に生絹の袋を頸に懸け、袍の下に在り、)近例召しに依りて御前に参り、竜顔に近づき、宸筆の宣命を給う、(近代懸紙一枚を加えて封ぜらる、)使笏を授けて之を給わり、懐中に挿む、勅して曰く能く能く申し進めよ、使称唯す、次に仰せられて曰く、宣命読み了らば、神前に於いて之を焼くべし、(若し仰せられずば、殿上に出でて蔵人をして焼くべきか、将た返上すべきかの由を申さしむ、云云、)次に甲賀駅に到りて宿す、云云、十日云云、鈴鹿駅に到りて宿す、十一日、国司供給す、早旦浴殿、次に禊して路に就く、(鈴鹿川を渡ること二渡、安濃川三瀬、雲出川を渡る、)壱志駅に到りて宿す、十二日云云、伊勢の祗承、下見橋に於いて退去す、櫛田川を渡る、(大神宮の検非違使祗承すべし、)多気川にて禊す、(大神宮司祓物を儲く、)下樋小川、或いは云う鈴の声を停む、(神領と国領との界なり、)件の川は斎宮の東に在り、これに下見橋と下樋小川とを、別にある如く記せれども、下見橋すなわち下樋小川の橋なり。此川は、櫛田川多気川などより西にあり、斎宮の東に在りとあるも、たがえり。斎宮は、多気川の東なればなり。
現代語訳
『西宮記』に次のようにある。「伊勢への使いは、当日の早朝に沐浴し、次に禊をする云々。次に参内する(内側に生絹の袋を首に懸け、袍の下に入れる)。近年の例では、召しによって御前に参り、天皇のお顔の近くに寄って、宸筆(天皇直筆)の宣命を賜る(近代は懸紙を一枚加えて封をされる)。使いは笏を人に預けてこれを賜り、懐中に挿む。天皇が『よくよく申し上げよ』と仰せられ、使いは『おお』と答える。次に『宣命を読み終えたら神前で焼け』と仰せられる(もし仰せが無ければ、殿上に出て蔵人を通じて、焼くべきか返上すべきかを伺わせる、云々)。次に甲賀の駅に着いて泊まる、云々。十日云々、鈴鹿の駅に着いて泊まる。十一日、国司がもてなす。早朝に湯浴みし、次に禊をして出立する(鈴鹿川を二度渡り、安濃川は三つの瀬、雲出川を渡る)。壱志の駅に着いて泊まる。十二日云々、伊勢国の案内役は下見橋で退く。櫛田川を渡る(大神宮の検非違使が案内役を務める)。多気川で禊をする(大神宮司が祓えの物を用意する)。下樋小川、あるいは鈴の音を止めるともいう(神領と国領の境である)。この川は斎宮の東にある」。これに下見橋と下樋小川とを別々にあるように記しているが、下見橋はすなわち下樋小川の橋である。この川は櫛田川・多気川などより西にあるので、「斎宮の東にある」とあるのも違っている。斎宮は多気川の東だからである。
解説
関連する章句
-
『玉勝間』三の巻 下樋小川伊勢の下樋小川は、古、飯高の郡と飯野の郡との堺にて、飯高の郡とも、飯野の郡とも、書どもには有り。神領と国領との堺にて、駅使の鈴の声を止めし所なり。然るに此川、今はさだかならず。まず昔の大道は、今の大道より東北に在りて、飯高の郡の細汲平生大口江津岸の江、飯野の郡の朝田立入清水など云う村を経て、斎宮にいたる道にて、今も其道あり、三渡りより分るるなり。さて或人の説に、岸の江村と朝田村とのあいだ、東岸の江村を離れて、すこし東に、鈴止の森と云いて、小さき塚あり、これ下樋小川の跡なりと云えり。今は川は流れの変りて、其塚のあたりにはあらず、やや東の方に在りて、真盛川と云いて、土橋を渡せる川なり。此川の上、今の大道にては、飯高の郡の内にて、下村と上川村との間なる小川、又徳和村と下村との間の小川など是なり。さて今の大道、松坂の東なる、徳和村の東のはずれに、貧乏川と云う有りて、土橋を渡せる、其の少し上の方に、此の貧乏川の底の地の下を、西より東へよこぎりに、樋を通して流す川一つあり。そは其川の上の方、地ひきくして、かの貧乏川へ一つに落しがたき故に、しか下樋をとおして、東の地ひきき方へ流せるなり。
-
『玉勝間』十の巻 長寛三年斎王帰京同じ記に云う、長寛三年十二月十九日酉の時、前の斎宮本寮を立つ、迎えは左少弁行隆、王は兼隆なり。亥の尅逸志の宿に着く。廿日午の尅逸志の駅家を立つ。廿一日、既に伊世の河口、午の時出御、万事具わらざるの故なり。廿一日、戌の時、伊賀の山中に着き、一宿し了んぬ。先例無し。迎えの御輿、散散に引き破れ、薪を結び合わするが如くにして持参するなり、凡そ先例無き事なり。廿二日戌の時、伊賀の河口に着く、廿三日、黒太に着く。(丈六堂と云う)即ち一宿す。抑も伊賀の河口にて、寮の侍武者所の為に、平大納言の河婦字衆の住人致時を殺し了んぬ。已にその身手を負う。御迎えの検非違使広綱の子二人闘乱し、已に突き殺し了んぬ。凡そ路次一切措かず、濫行の端多し。廿五日、僅かに和泉の木津に着く、御所を作らず、仍りて觧艋に宿らしめ奉る云々、凡そ今度の帰京散散か、後代如何。うら書に、逸志の駅家(十九日未の時、立たしめ給う、宮司辨憂に依りて助けて勤めざる事、駅家は寮頭国司たるの間、仮屋の御所許り、自ら催し立つ、御膳を供せず、万事具わらず云々、)河口の駅家、形の如く御所の仮屋許りなり。米四石を出す云々。興折(廿日夜半)作らず、山路嶮岨の間、行歩に堪えず、仍りて艱難云々。今夜御膳を供せず、伊賀の駅家、一切措かず、同じく在庁相迎えず、卅町を経て宿す。廿二日、伊賀の神部、(先例無し、駕輿丁瓩弱の後、斎王御泣涕云々、)御輿を召し替え部の宿の小屋(大和)二鳥居(供給无し、なまり江の御祓、二瀬了んぬ)梨木津にて御船を召す。おとろえたりし世の有さま、あさましなど云わむは、世のつねなり。上の件の文、文字誤りもし、また脱もしたりと見えて、いかにとも読み難きところどころあり。
-
『玉勝間』二の巻 御即位後奉幣諸神祝詞同じ記のつづきにまた云わく、天慶九年四月十五日の外記日記に云う、天皇即位す、仍りて五畿内七道諸国の天神地祇に幣帛を奉らんが為に、五畿内は諸司の物を以て宛て用い、諸国は当の正税を以て之に宛て用う、使は道毎に神祇の中臣斎部等を差す、(各駅鈴一口を給う、但し畿内の使には給わず、)また五畿七道諸国の諸神に奉幣する日、廃務の有無の事、天禄元年三月廿日辛酉、終日雨降る、上卿参らず、仍りて政無きなり、今日天皇御即位の後、先例に依りて五畿七道諸国の諸名神に奉幣する使を発遣せらるるなり、件の使等は、神祇官の先日差し申すに依りて、大中臣斎部等を以て其の官と為し、諸国に符し給う、但し神祇官より件の使等を立つ。また、畿内七道の使の官符八枚、七道の幣料、正税を以て之に宛つべき官符五枚等なり、合わせて十五枚、と見えたり。この記は、後の小野の宮の右大臣実資公の日記なり。
-
『玉勝間』三の巻 宣命料紙の色同記に云う、宣命の料紙、伊勢は緑、賀茂は紅、余は黄。
-
『玉勝間』五の巻 大神宮に諸人のまうづる事同じ書に、承平四年九月の御祭云云、参宮人千万、貴賤を論ぜず云云、と有るを見れば、その頃もかかりしなり。そもそも大神宮には、私の幣を奉ることは、禁制なりしかども、詣ずる事は、なべて苦しからざりしにや。
-
『玉勝間』八の巻 伊勢勅使のとも人の数同じ書に、仁安三年十二月二十一日、伊勢大神宮炎上によりて、同じ月勅使、左大弁雅頼卿発遣、その人数は、勅使大弁子息一人、従十一人、前駈六人(従各五人)、侍五人(従各十人)、雑色六人(従各二人)、舎人四人、人夫三十人、右大史三善章貞、従二十人、史生盛久、同兼康、従各二十人、馬各五疋、官掌頼兼(同前)、弁侍二人、従各五人、馬各二疋、使部十人、従各一人と見えたり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る