玉勝間 / 六の巻 百度参
平戶記、延應二年二月十一日のところに、臨夜景密密参祇園、依恒例之勤、率人數有百度詣事云云。
新字:平戸記、延応二年二月十一日のところに、臨夜景密密参祇園、依恒例之勤、率人数有百度詣事云云。
書き下し
平戸記、延応二年二月十一日のところに、夜景に臨みて密々に祇園に参る、恒例の勤めに依りて、人数を率いて百度詣の事有り云云。
現代語訳
平戸記の延応二年二月十一日のところに、「夜になって、ひそかに祇園に参った。恒例のお勤めとして、人数を率いて百度詣をした」云々とある。
解説
百度参り(お百度)が鎌倉時代にすでに行われていたことを、平戸記の記事で示した短い一段である。平戸記は民部卿平経高の日記で、延応二年(1240)の条に、恒例の勤めとして人を率いて祇園社に百度詣をしたとある。百度参りは、社寺の境内を百回往復して祈願する習わしで、宣長の時代にも盛んに行われていた。宣長は評を加えず記事だけを写しているが、庶民の信心の形と思われがちな習わしが、公家の日記に恒例の勤めとして記されていることは注目に値する。今も続く祈りの作法には、思いのほか古い歴史を持つものがある。夜にひそかに参るという記述にも、人目を忍んだ祈りの姿がうかがえる。
関連する章句
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