玉勝間 / 十の巻 神事の簡
吉部秘訓抄に、立神事簡、僧尼、重輕服、不淨之輩、不可參入之由書之。
新字:吉部秘訓抄に、立神事簡、僧尼、重軽服、不浄之輩、不可参入之由書之。
書き下し
吉部秘訓抄に、神事の簡を立て、僧尼、重軽服、不浄の輩、参入すべからざる由を之に書く。
現代語訳
吉部秘訓抄に、「神事の簡(ふだ)を立て、僧尼や、重い喪・軽い喪に服している者、不浄の者たちは参入してはならない旨をこれに書く」とある。
解説
吉部秘訓抄から、神事の際に立てる札についての一文を抜き出した段である。神事の期間中は札を立て、僧尼、重い喪や軽い喪に服している者、その他の不浄の者は立ち入ってはならないと書き出した。古代の神事では穢れを避けることが最も重んじられ、死の穢れに触れた者や、仏に仕える僧尼も、神域から遠ざけられた。吉部秘訓抄は、平安末の公家藤原経房の日記吉記から先例を抜き出した書とされる。宣長は、神事の清浄を重んじる古来の作法が、具体的な札の文言として記録に残っていることを示したかったのだろう。何を持ち込まないかをはっきり示すことで場の性格を守るという考え方は、今も祭りや儀式の場に受け継がれている。
関連する章句
-
『玉勝間』六の巻 客殿吉部秘訓抄に、文治二、正、十、同記に云う、大夫史広房入り来る、先ず中門の外に立つ、予客殿に出ず、とあり。客殿と云うこと、その頃も有りしなり。
-
『玉勝間』一の巻 服ぬぎの次第同記に云う、仁治三年二月廿六日、今夜左大臣殿、四条院の御服を除かしめ給うと云々、川原に於いて除かしめ給うべきの処、御蚊触の事出で来たり、御減有りと雖も、忽ち御河原の条、如何の由、医師計り申すの間、只門外に出ずるなり、吉服の御直衣を召し、御車に駕し、門外に出で、吉方に向かいて、除かしめ給うなり、政所先日の御帯を献ず、是より先に吉服の御装束を召し、御車に駕せしめ給う、其の後御帯を献ず、(伝え乱るるの人之を聞かず、尋ぬべし、)之を召し一結にて之を給う、(或る説、除服の時、また之を召さずと云う、吉方を忌むか、体尋ぬべし、)鈍色の御直衣一襲、陰陽師の前に置く、御車吉方に向け、榻を立て、次に禊を修す、次に家司兼〓朝臣〓〓大麻を伝え、便ち御贖物を撤し、陰陽師御帯を切り、河原に遣わして流し棄つるなり。
-
『玉勝間』一の巻 から国の官神事と喪事とをかね行ふ事周礼と云うから書を見れば、大祝・小祝の官、もろもろの神祇祭祀の事をあづかり掌り、また喪事をもあづかり掌るよし云えり。生きたると死にたると、浄きと穢きとのわき無くして、皇国のこころより見れば、いともいとも穢らわしき国俗なりけり。
-
『玉勝間』一の巻 平戸記は、多く以て実無きなり、仍て文治の意見に、光長卿議定して言う、実無き物等、其の代物を定めらるべし、新式を立てらるべきかと云う、此の議然るべきの由沙汰有り、記録所に於いて之を定めらる、然れども終に施行無し、建暦の末・建保の初め、また此の沙汰に及ぶ、已に其の奉行等の人数を定めらると雖も、終にまた施行無し、近くは仁治に此の沙汰あり、子細前に同じと云々、封有るの神事、今に於いては封戸実無しと云々、またいわく、同年三月八日、小除目を行わる、中務丞〓原行真云々、中務丞の名字(行真)は、後白河院の御法名なり、職事に云う、年如何と云う、上卿・執筆等存知せざるか、また執柄御覚悟無きか、不審不審、後に聞く、数日を経て此の沙汰出で来たり、追って改めらると云う。
-
『玉勝間』十の巻 賀茂ノ社の神主祢宜権祢宜台記に云う、久寿元年六月十五日、頭光頼朝臣来たりて曰く、賀茂の禰宜重忠、神主に転じ、権禰宜家平、禰宜に転じ、貴布禰の禰宜助平、権禰宜に転じ、氏人久〓、貴布禰の禰宜に補す、てえりと見えたり。神主と禰宜と有りしなり。貴布禰の禰宜の権禰宜に転ずるは、賀茂の権禰宜に成れりしなり。
-
『玉勝間』十の巻 百座ノ祓白川顕広王記に云う、長寛三年六月六日、今日百座の祓。そのかみ早くかくさまのわざも有りしなり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る