玉勝間 / 一の巻 平戸記
者多以無實也、仍文治意見、光長卿議定言、無實物等、可被定其代物、可被立新式歟云、此議可然之由有沙汰、於記錄所被定之、然而終無施行、建曆末建保初、又及此沙汰、已雖被定其奉行等人數、終又無施行、近者仁治此沙汰、子細同前云云、有封之神事、於今者封戶無實云云、またいはく、同年三月八日、被行小除目、中務丞〓原行眞云云、中務丞名字。(行眞)者、後白河院御法名也、職事云、年如何云、上卿執筆等不存知歟、又執柄無御覺語歟、不審不審、後聞、經數日此沙汰出來、追被改云。
新字:者多以無実也、仍文治意見、光長卿議定言、無実物等、可被定其代物、可被立新式歟云、此議可然之由有沙汰、於記録所被定之、然而終無施行、建暦末建保初、又及此沙汰、已雖被定其奉行等人数、終又無施行、近者仁治此沙汰、子細同前云云、有封之神事、於今者封戸無実云云、またいはく、同年三月八日、被行小除目、中務丞〓原行真云云、中務丞名字。(行真)者、後白河院御法名也、職事云、年如何云、上卿執筆等不存知歟、又執柄無御覚語歟、不審不審、後聞、経数日此沙汰出来、追被改云。
書き下し
は、多く以て実無きなり、仍て文治の意見に、光長卿議定して言う、実無き物等、其の代物を定めらるべし、新式を立てらるべきかと云う、此の議然るべきの由沙汰有り、記録所に於いて之を定めらる、然れども終に施行無し、建暦の末・建保の初め、また此の沙汰に及ぶ、已に其の奉行等の人数を定めらると雖も、終にまた施行無し、近くは仁治に此の沙汰あり、子細前に同じと云々、封有るの神事、今に於いては封戸実無しと云々、またいわく、同年三月八日、小除目を行わる、中務丞〓原行真云々、中務丞の名字(行真)は、後白河院の御法名なり、職事に云う、年如何と云う、上卿・執筆等存知せざるか、また執柄御覚悟無きか、不審不審、後に聞く、数日を経て此の沙汰出で来たり、追って改めらると云う。
現代語訳
は多くが実質のないものである。そこで文治の意見で光長卿が議定して言うには、実質のない物などは、その代わりの物を定めるべきである、新しい式を立てるべきであろうか、と。この議はもっともであるとの沙汰があり、記録所でこれを定められた。しかしとうとう施行されなかった。建暦の末・建保の初めにもまたこの沙汰に及び、すでにその奉行などの人数まで定められたけれども、結局また施行されなかった。近くは仁治にもこの沙汰があったが、事情は前と同じであるという。封戸のある神事も、今では封戸の実質がないという。」またこうある。「同年三月八日。小除目が行われた。中務丞に某原行真とある。中務丞の名(行真)は後白河院の御法名である。職事に尋ねると、年来のことはどうかという。上卿や執筆らは知らなかったのか。また執柄(摂政・関白)もお気づきにならなかったのか。不審である、不審である。後に聞くと、数日たってからこの問題が持ち上がり、追って改められたという。」
解説
関連する章句
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『玉勝間』一の巻 平戸記平戸記にいわく、仁治三年正月十六日云々、凡そ空位数日に及ぶ、偏に是れ関東の所為なり、十七日云々、阿波院の宮、武士の縁に依りて、一定御出立の由、世以て風聞す、前内府(定通公)の妻、使縁者、泰時・重時等の姉妹なり、此の如きの間、私に使者を関東に差し遣わし、慇懃の旨有りと云う、十九日云々、巷説に云う、関東の飛脚、此の申の剋許りに武家に著くと云う、此の由を以て且つ一条殿に申すと云う、是に依りて京中物念と云う、抑も此の事、関東計らい申すの条、末世の至りと知ると雖も、極めて悲しむべし悲しむべし、十善の帝位の運、更に凡夫愚賤の思う所に非ず、而るに時儀に順わしめ給うに依るか、一旦仰せ合わせらると雖も、〓凡卑の下愚を以て、帝位を計り立つるの条、未曾有の事なり、我が朝は神国なり、異域の風に似ず、茲の天地開くより後、国常立尊以降、皆先主計り立てしめ給う、不慮の事に至りては、此の限りに非ず、光仁・光孝二代に至りては、群臣議定するか、然れども其の趣、偏に天下を安んぜんが為なり、今群議に非ず、異域蛮類の身を以て此の事を計り申すの条、宗廟の冥慮如何、尤も恐るべし恐るべし。またいわく、寛元三年二月十日云々、神事興行の事、祈年・祈年穀・月次祭已下、諸社の祭礼等、皆起行の儀有るべくば、先ず幣物・〓物・庭積等、今に於いては実無きなり、皆悉く尋ね沙汰有るべし、而るに件の事等、末代に臨みて治め難きか、式数を守るべくば、その物今
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