玉勝間 / 一の巻 服ぬぎの次第
同記云、仁治三年二月廿六日、今夜左大臣殿令除四條院御服給云云、於川原可令除給之處、御蚊觸事出來、雖有御減、忽御河原之條、如何之由、醫師計申間、只出御門外也、召吉服御直衣、駕御車、出門外、向吉方、令除給也、政所獻先日御帶、先是召吉服御裝束、令駕御車給、其後獻御帶、(傳亂之人不聞之、可尋、)召之一結ニテ給之、(或說、除服之時、又不召之云、忌吉方歟、體可尋、)鈍色御直衣一襲、置陰陽師前、御車向吉方、立榻、次修禊、次家司兼〓朝臣傳〓〓大麻、便撒御贖物、陰陽師切御帶、遣河原流弃也。
新字:同記云、仁治三年二月廿六日、今夜左大臣殿令除四条院御服給云云、於川原可令除給之処、御蚊触事出来、雖有御減、忽御河原之条、如何之由、医師計申間、只出御門外也、召吉服御直衣、駕御車、出門外、向吉方、令除給也、政所献先日御帯、先是召吉服御装束、令駕御車給、其後献御帯、(伝乱之人不聞之、可尋、)召之一結ニテ給之、(或説、除服之時、又不召之云、忌吉方歟、体可尋、)鈍色御直衣一襲、置陰陽師前、御車向吉方、立榻、次修禊、次家司兼〓朝臣伝〓〓大麻、便撒御贖物、陰陽師切御帯、遣河原流弃也。
書き下し
同記に云う、仁治三年二月廿六日、今夜左大臣殿、四条院の御服を除かしめ給うと云々、川原に於いて除かしめ給うべきの処、御蚊触の事出で来たり、御減有りと雖も、忽ち御河原の条、如何の由、医師計り申すの間、只門外に出ずるなり、吉服の御直衣を召し、御車に駕し、門外に出で、吉方に向かいて、除かしめ給うなり、政所先日の御帯を献ず、是より先に吉服の御装束を召し、御車に駕せしめ給う、其の後御帯を献ず、(伝え乱るるの人之を聞かず、尋ぬべし、)之を召し一結にて之を給う、(或る説、除服の時、また之を召さずと云う、吉方を忌むか、体尋ぬべし、)鈍色の御直衣一襲、陰陽師の前に置く、御車吉方に向け、榻を立て、次に禊を修す、次に家司兼〓朝臣〓〓大麻を伝え、便ち御贖物を撤し、陰陽師御帯を切り、河原に遣わして流し棄つるなり。
現代語訳
同じ日記にこうある。「仁治三年二月二十六日。今夜、左大臣殿が四条院の喪服をお脱ぎになったという。河原でお脱ぎになるはずのところ、御蚊触(できもの)の事が起こった。軽くはなったものの、すぐに河原へお出ましになるのはいかがかと医師が申したので、ただ門の外に出られただけである。吉服(平服)の御直衣を召し、御車に乗って門の外に出て、吉方に向かってお脱ぎになった。政所が先日の御帯を献じた。これより先に吉服の御装束を召して御車にお乗りになり、その後に御帯を献じた(伝えが乱れている者はこれを聞いていない。尋ねるべきである)。これを召して一結びにしてお与えになった(ある説では、除服の時にはまたこれを召さないという。吉方を忌むのか。その様子を尋ねるべきである)。鈍色(喪の色)の御直衣一襲を陰陽師の前に置き、御車を吉方に向けて榻(台)を立て、次に禊を行う。次に家司の兼某朝臣が大麻(おおぬさ)を伝え、すぐに御贖物(けがれを移す品)を下げ、陰陽師が御帯を切って、河原に遣わして流し捨てるのである。」
解説
関連する章句
-
『玉勝間』一の巻 平戸記は、多く以て実無きなり、仍て文治の意見に、光長卿議定して言う、実無き物等、其の代物を定めらるべし、新式を立てらるべきかと云う、此の議然るべきの由沙汰有り、記録所に於いて之を定めらる、然れども終に施行無し、建暦の末・建保の初め、また此の沙汰に及ぶ、已に其の奉行等の人数を定めらると雖も、終にまた施行無し、近くは仁治に此の沙汰あり、子細前に同じと云々、封有るの神事、今に於いては封戸実無しと云々、またいわく、同年三月八日、小除目を行わる、中務丞〓原行真云々、中務丞の名字(行真)は、後白河院の御法名なり、職事に云う、年如何と云う、上卿・執筆等存知せざるか、また執柄御覚悟無きか、不審不審、後に聞く、数日を経て此の沙汰出で来たり、追って改めらると云う。
-
『玉勝間』一の巻 四条天皇御諡のさだ同記に云う、仁治三年正月十九日、先帝御諡号の事、群臣議定す、或いは四条院と申し、或いは後六条院と申し、或いは五条院と申し、或いは後鳥羽院と申す、云々、四条は、御喪所を右大将の亭(三条西洞院)に移さるべし、四町の内なり、其の寄せ有るべきかと云う、
-
『玉勝間』六の巻 節下大臣御禊の時に、節下の大臣と云う事有り。そは玉薬に、建暦二年十月二十八日、この日天皇鴨河に臨みて禊を修す云云、節下は左大臣良輔云云。左大臣座を起ち、宣仁・敷政等の門より出で、宣陽・春華の両門を経て、標の下に向かい畢んぬ。件の標は、建礼門の南へ去ること十九丈、節旗の標を立つ、南へ去ること一丈、節下大臣の標を立つ云云、と有るを以て見れば、節旗の下に近き所に立つゆえの名なるべし。
-
『玉勝間』十の巻 人の出去し跡を掃ことを忌ム事人の出で行きしあとを掃く事をいむは、葬の出でぬる跡をはくわざの有る故なり。同じ記に久寿二年十二月十七日、伝え聞く、今夜亥の刻、高陽院入棺云々、即ち福勝院に遷し奉る云々、出御の後、民部大夫重成、竹箒を以て御所を払う。
-
『玉勝間』二の巻 天皇御元服のよしを山陵に告給ふ宣命同記に、天皇が詔旨と、掛けまくも畏き其の山陵に〓申し賜えと申さく、公卿議り奏さく、明年は、天皇御歳を加え給い漸々、冠の年近くなり給うべし、冠は成人の始めにして、盛礼の嘉事なり、来る正月の吉日良辰に、元服を加え奉りて、人望に叶うべしと奏せり、掛けまくも畏き山陵の広き助けに依りて、平らけく安らけく果たし行わしめ給うべし、故に是を以て此の状を、官位姓名を差し使わして、恐み恐みも申し賜わくと奏す。寛仁元年十二月十九日。
-
『玉勝間』四の巻 人のうせたる後のわざ人の死にたる後のわざ、上つ代にはいかに有りけむ。神代に天若日子の身うせにし時、八日八夜遊ぶと有りて、楽して遊びし事などの、わづかに見えたるのみにして、こまかなる事は、すべて知りがたし。ただし音楽して遊びし事は、なべての定まりなり。そのよしは古事記伝に云えるが如し。さて死を穢とする事は、神代より然り。されどそれも、日数のかぎりの定まりしは、後なるべし。また忌服は、から国をまねびたる、後の事なり。書紀の仁徳天皇の御巻に、素服と云う字など見えたれど、例の漢文のかざりにこそ有れ、そのかみさる事有りしにあらず。仲哀天皇崩りましまして、いく程も無く、神功皇后の、重き御神わざの有りしにても、服無かりけむ事知られたり。そもそも漢国に、喪服と云う事のかぎりを、こまやかに定めたるは、ねもころなるに似たれども、なかなかに心ざし浅き、うわべの事なり。親などにおくれたらん悲しさは、その月のその頃までと、きわやかにかぎりの有るべきわざには有らざるに、しいてかぎりをたてて、きわやかに定めたるは、かの国のなべてのくせにて、云いもてゆけば、人にいつわりを教うるわざなり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る