玉勝間 / 十の巻 春日ノ社の預リ
同記曰、同年九月七日、今日招左大辨、仰下春日社預二人、本六人也、而關白殿長者間、加一人爲七人、余長者後、仰曰、宜任舊爲六人、但非可解却本預、一人闕時、不可補替者。其後預信春有罪解却。祐房有兼死去。三人替補二人也。(有定祐政)
新字:同記曰、同年九月七日、今日招左大弁、仰下春日社預二人、本六人也、而関白殿長者間、加一人為七人、余長者後、仰曰、宜任旧為六人、但非可解却本預、一人闕時、不可補替者。其後預信春有罪解却。祐房有兼死去。三人替補二人也。(有定祐政)
書き下し
同じ記に曰く、同年九月七日、今日左大弁を招き、春日社の預二人を仰せ下す、本は六人なり、而るに関白殿長者の間、一人を加えて七人と為す、余長者の後、仰せて曰く、宜しく旧に任せて六人と為すべし、但し本の預を解却すべきに非ず、一人闕くる時、補い替うべからず、てえり。その後預信春罪有りて解却す。祐房・有兼死去す。三人の替りに二人を補すなり。(有定・祐政)
現代語訳
同じ記(台記)にいう。「同年九月七日、今日、左大弁を招いて、春日社の預(あずかり)二人の補任を命じ下した。もとは六人である。ところが関白殿(藤原忠通)が氏長者であった間に、一人を加えて七人とした。私(頼長)が氏長者となった後、命じて言った。『旧来のとおり六人とすべきである。ただし今の預を解任すべきではない。一人欠けた時に補充しないことにせよ』と。その後、預の信春は罪があって解任された。祐房と有兼は死去した。三人の後任として二人を補任したのである(有定・祐政)。」
解説
同じく台記から、春日社の「預」という神職の定員をめぐる記事を抜き出した段である。春日社は藤原氏の氏神で、その運営は氏長者が差配した。預はもと六人だったが、兄の忠通が氏長者の時に七人に増やした。弟の頼長は氏長者になると旧に復して六人とするよう命じたが、今いる者を解任するのではなく、欠員が出ても補充しないという穏やかな方法をとった。その後、一人が罪で解任され二人が死去したので、三人の後に二人だけを補い、六人に戻したという。忠通と頼長の兄弟はやがて保元の乱で争うことになるが、この記事にも兄の措置を改めようとする頼長の姿勢がにじむ。今いる人を切らずに自然減で定員を戻すという手法は、今の組織運営でも使われる知恵である。
関連する章句
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『玉勝間』十の巻 賀茂ノ社の神主祢宜権祢宜台記に云う、久寿元年六月十五日、頭光頼朝臣来たりて曰く、賀茂の禰宜重忠、神主に転じ、権禰宜家平、禰宜に転じ、貴布禰の禰宜助平、権禰宜に転じ、氏人久〓、貴布禰の禰宜に補す、てえりと見えたり。神主と禰宜と有りしなり。貴布禰の禰宜の権禰宜に転ずるは、賀茂の権禰宜に成れりしなり。
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『玉勝間』七の巻 不如闕礼仏之勤全敬神之忠との詔同記に、同四年九月十七日、今日春日若宮祭、仍りて念珠を取らず、私に堂に入ることを得ず、京師より奉幣す、云々、礼拝の時に及びて、余に詔して曰く、汝神斎有り、拝すべからざるか、対えて曰く、君の前に何ぞ私の斎を以て礼を闕かんや、また詔して曰く、奏する所礼の意に合う、然れども今は正礼を行う所の処に非ず、仏を礼するの勤めを闕きて、神を敬うの忠を全うするに如かず、余詔旨に従う、と見えたり。詔は鳥羽の法皇の詔なり。こは法皇天王寺に御幸ありて、彼の寺におわしましける時、頼長公も御共にて、さぶらい給えるほどの事なり。然る仏事の御おりしも、さすがに神わざを、やむことなくおぼしめしたる詔の、尊くおぼえ奉るままに、しるしつ。
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