玉勝間 / 七の巻 御即位親王代礼服
實躬卿記(一名先人記)云、永仁六年十月小十三日(丁卯)天晴風靜、今日天皇(春秋十一歲)御即位、(官廳也、)實躬被定右親王代之間、巳尅着禮服、先着烏帽子、理髮、(小烏帽子也、如隨身烏帽子也、)次着大口、(例ノ大口也、)次着機、(例機二重、上赤地錦機着也、可有休組歟、或又無之、)次着單衣、(例單、解放袖、强不見之上、小袖寸法大小之間、依爲無要也、)次着表袴(可用唐綾歟、近代絕無此儀、仍例縮線綾表務所着用也、左親王代又如此、表袴大口等腰、如恒結之、)次著裳、(深色顯文紗、自表袴三寸引上天着之、)次着小袖、(黑櫨、自裳三寸引上天着之、以下帶結之、)次着大袖、(麹塵御綾、織文雲唐鳥丸、自小袖三寸引上天着之、以下帶又結之、大袖頸帋半當天折之、承久故大納言着用如此、)次結經、(如平〓前爾垂、總末至大袖末上程、平〓垂經之間如此、經俊左腰〓垂、聊寄前方、總末至小袖未、)次付玉佩、(付右腰付下帶天如付結之、其末綴未押交、)次帶箭劔、(紫檀平〓、垂前綬少長垂之、出石見一寸余、後平緒下与利一寸餘出見、)次着玉冠、(冠合頭調之、仍燈心輪頗無要之間不入之、紫組緒自耳後頸下結之、又搆小〓鳥帽風口、是今要也、承久故大納言自里亭着之、)次取笏(須持牙笏、次而不可持之間、以置物化之、)扇、(紫扇也、爲用意懷中之、)已上玉佩之外悉新調之と見ゆ、寫し誤れるもじ有りと見えて、讀みがたき所所有。
新字:実躬卿記(一名先人記)云、永仁六年十月小十三日(丁卯)天晴風静、今日天皇(春秋十一歳)御即位、(官庁也、)実躬被定右親王代之間、巳尅着礼服、先着烏帽子、理髪、(小烏帽子也、如随身烏帽子也、)次着大口、(例ノ大口也、)次着機、(例機二重、上赤地錦機着也、可有休組歟、或又無之、)次着単衣、(例単、解放袖、強不見之上、小袖寸法大小之間、依為無要也、)次着表袴(可用唐綾歟、近代絶無此儀、仍例縮線綾表務所着用也、左親王代又如此、表袴大口等腰、如恒結之、)次著裳、(深色顕文紗、自表袴三寸引上天着之、)次着小袖、(黒櫨、自裳三寸引上天着之、以下帯結之、)次着大袖、(麹塵御綾、織文雲唐鳥丸、自小袖三寸引上天着之、以下帯又結之、大袖頸帋半当天折之、承久故大納言着用如此、)次結経、(如平〓前爾垂、総末至大袖末上程、平〓垂経之間如此、経俊左腰〓垂、聊寄前方、総末至小袖未、)次付玉佩、(付右腰付下帯天如付結之、其末綴未押交、)次帯箭剣、(紫檀平〓、垂前綬少長垂之、出石見一寸余、後平緒下与利一寸余出見、)次着玉冠、(冠合頭調之、仍灯心輪頗無要之間不入之、紫組緒自耳後頸下結之、又搆小〓鳥帽風口、是今要也、承久故大納言自里亭着之、)次取笏(須持牙笏、次而不可持之間、以置物化之、)扇、(紫扇也、為用意懐中之、)已上玉佩之外悉新調之と見ゆ、写し誤れるもじ有りと見えて、読みがたき所所有。
書き下し
実躬卿記(一名先人記)に云う、永仁六年十月小十三日(丁卯)天晴れ風静かなり、今日天皇(春秋十一歳)御即位、(官庁なり、)実躬右の親王代に定めらるるの間、巳の剋礼服を着る、先ず烏帽子を着て、理髪す、(小烏帽子なり、随身の烏帽子のごときなり、)次に大口を着る、(例の大口なり、)次に襪を着る、(例の襪二重、上に赤地の錦の襪を着るなり、休組有るべきか、或いはまた之無し、)次に単衣を着る、(例の単、袖を解き放つ、強ちに見えざるの上、小袖の寸法大小の間、無要たるに依るなり、)次に表袴を着る(唐綾を用うべきか、近代絶えてこの儀無し、仍りて例の縮線綾の表袴を着用する所なり、左の親王代もまたかくのごとし、表袴・大口等の腰、恒のごとく之を結ぶ、)次に裳を着る、(深色の顕文紗、表袴より三寸引き上げて之を着る、)次に小袖を着る、(黒櫨、裳より三寸引き上げて之を着る、下帯を以て之を結ぶ、)次に大袖を着る、(麹塵の御綾、織文は雲・唐鳥の丸、小袖より三寸引き上げて之を着る、下帯を以てまた之を結ぶ、大袖の頸紙半ばに当てて之を折る、承久の故大納言の着用かくのごとし、)次に綬を結ぶ、(平緒のごとく前に垂る、総の末は大袖の末の上程に至る、平緒に綬を垂るるの間かくのごとし、経俊は左の腰に垂れ、聊か前方に寄す、総の末は小袖の末に至る、)次に玉佩を付く、(右の腰に付け、下帯に付けて結び付くるがごとし、その末の綴は未だ押し交えず、)次に剣を帯ぶ、(紫檀の平緒、前に垂るる綬少し長く之を垂る、石見より一寸余出だす、後は平緒の下より一寸余出だし見す、)次に玉冠を着る、(冠は頭に合わせて之を調う、仍りて燈心の輪頗る無要の間之を入れず、紫の組緒を耳の後より頸の下に結ぶ、また小さき烏帽子の風口を構う、これ今の要なり、承久の故大納言は里亭より之を着る、)次に笏を取る(須らく牙笏を持つべし、次いでにて持つべからざるの間、置物を以て之に化す、)扇、(紫の扇なり、用意の為に之を懐中す、)已上玉佩の外悉く之を新調すと見ゆ、写し誤れるもじ有りと見えて、読みがたき所々有り。
現代語訳
実躬卿記(別名を先人記という)に次のようにある。「永仁六年十月(小の月)十三日(丁卯)、晴れて風は静かである。今日、天皇(御年十一歳)の御即位である(太政官庁で行われた)。私実躬は右の親王代に定められたので、巳の刻に礼服を着た。まず烏帽子をかぶり、髪を整えた(小烏帽子である。随身の烏帽子のようなものである)。次に大口袴をはいた(いつもの大口である)。次に襪(しとうず)をはいた(いつもの襪を二重にし、上に赤地の錦の襪をはくのである。休組(?)があるべきか、あるいはこれはないか)。次に単衣を着た(いつもの単で、袖を解き放つ。ほとんど外から見えないうえ、小袖の寸法の大小もあって、必要ないからである)。次に表袴をはいた(唐綾を用いるべきか。近ごろはまったくこの例がない。そこでいつもの縮線綾の表袴を着用したのである。左の親王代もまたこのようにした。表袴・大口などの腰紐は、いつものように結ぶ)。次に裳を着けた(濃い色の地紋のある紗で、表袴より三寸引き上げて着ける)。次に小袖を着た(黒櫨(?)で、裳より三寸引き上げて着る。下帯で結ぶ)。次に大袖を着た(麹塵色の綾で、織り文様は雲と唐鳥の丸。小袖より三寸引き上げて着る。下帯でまた結ぶ。大袖の襟の紙は半ばに当てて折る。承久の故大納言の着用もこのようであった)。次に綬を結んだ(平緒のように前に垂らす。房の末は大袖の裾の上あたりまで届く。平緒に綬を垂らすのでこうなる。経俊は左の腰に垂らし、少し前の方に寄せた。房の末は小袖の裾まで届いた)。次に玉佩を付けた(右の腰に付け、下帯に結び付けるようにする。その末の綴じはまだ押し交えない)。次に剣を帯びた(紫檀の飾りのある平緒で、前に垂らす綬を少し長く垂らす。石見(?)より一寸余り出す。後ろは平緒の下から一寸余り出して見せる)。次に玉冠をかぶった(冠は頭に合わせて調える。そこで燈心の輪はまったく不要なので入れない。紫の組紐を耳の後ろから首の下で結ぶ。また小さな烏帽子の風口を構える。これが今の要点である。承久の故大納言は自邸からこれをかぶって出た)。次に笏を持った(本来は象牙の笏を持つべきだが、ついでで持つべきでないので、置物でこれに代えた)。扇(紫の扇である。用意のために懐に入れた)。以上、玉佩のほかはすべて新調した」と見える。写し誤った文字があると見えて、読みにくい所々がある。
解説
関連する章句
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『玉勝間』四の巻 伏見天皇御即位の次第その後大しょうじのひんがしに、ひらしきの御座に、うげん二帖のうえに、御しとねよそいて、このうえにてわきの御膳などまいらす。御ばいぜんは女房、やくそうの女房は、こ上臈、あした所の北むきに、北にさぶらう。ぶぎょうのしきじを出だして、高御座の事はぐしたるかと、おおせくださるれば、しきじかえりまいりて、ぐしたるよし奏す。ひらしきの御座にて、御束帯ときくつろげさせおわしまして、玉の御かぶりめさる。らいふくめされて、大床子に主上わたらせおわします。玉の御かぶりに、あけのおをつく。あけの御ほうに、左右の御かたは、月と日とを出だし、御なおしには、北斗七星をあらわしたてまつる。御むね御袖には、竜ののぼりたるをぬいたり、あられじの御うえのはかまのうえに、らいふくの御もを召す。そのうえに御大そでの御ほうを召す。御くびがみ御まえもなり。そのうえにたかくびの御小袖の御ほうを召す。このいろいろの御もんは、御小袖の御ほうにあらわして、うえに召したり。あかじの錦の御しとうず、はながたのうらの御くつ、あかじのにしきにてつつみたり。御こしには御じゅとて、ひらおのしろきを引かせ給いたり。
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『玉勝間』四の巻 伏見天皇御即位の次第左の内侍まづのぼりて、左の御わきより、御けんをまいらせおく。御はしをしりぞきて、右のしもに内侍の座につきぬ。女王のしょうぞく、二色くれないのひとえ、そおうのうわぎ、あかいろのからぎぬ、かみあげの内侍は、勾当とこれ新内侍なり。御ぜんの命婦、みあれ、いつぬき、宮人、いしかわ、いぎの命婦、ははき、さぬき、ひぜん、たましき、これみなうらこきそおう、やなぎのからぎぬなり。こしょうの命婦、右衛門督殿(やなぎにくれないのひとえ、こうばいのうわぎ、)新左衛門督殿(もえぎにくれないのひとえ、山ぶきのうわぎ、)新宰相殿(むらさきうすように、しろきひとえ、山ぶきのうわぎ、もえぎのからぎぬ、)宮内卿殿(新宰相殿に同じ、)治部卿殿(紫のうすように、もえぎのうわぎ、えびぞめのからぎぬ、)少将内侍、少輔内侍(まつがさねに紅のひとえ、やなぎのからぎぬおなじ、)つねの衣のうえに、かいふにからぎぬ、こうけつの衣、ひらびたいなり。ぎょうれつのあいだの事、みさきにいぎの命婦四人、(えんどうの左右につづけり、)しょうちょうの左につく。つぎにけんしの内侍二人、(左こうとう、右はこれなり、)こしょうの女房、御うしろにあゆみつづきてまいる。
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『玉勝間』四の巻 伏見天皇御即位の次第左右の御うしろの御わきのとおりに、たんじゅとて、二すじ御よおろの程に下げられたり。御まえの左右の御わきに、ぎょくはいとて、玉をつらぬきて、つけられたり。御すそに、ひうちがたのからかねをつけられたれば、ふけんのごとくに、りやらめきならせ給う。御まえには、大じゅをむすび下げられたり。たちのひらおのごとく、むすびたれたり。高御座の事ぐしたるよし、しきじ申せば、やがて行幸あり。ぎょけんはこうとう給わる。璽はこれのやくなり。右の御わきにまいる。殿下のおおせに、そのしるしの御はこのうえにかけたるあみを、ゆびにかけつれば、とりはずし、あやまちはせぬぞとおおせあるに、御なさけの有りがたく、心もつよつよしくおぼえて、あやまち無し。高御座へ事ゆえなく参りつきぬ。とばりあげの役は、はくの三位のむすめなり。みょうぶ蔵人四人、やくの内侍六人、うらこきそおうこきもののぐ、行幸たか御くらへなれば、御さきのみょうぶ四人、御さきに立つ。その後かみあげの内侍二人、二行にならびて参る。たか御くらの御はしの左右に、ないしたちとまれば、殿下御簾のやくにまいり給いぬ。
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『玉勝間』四の巻 伏見天皇御即位の次第中務の内侍の日記に、弘安十一年、伏見の天皇御即位の儀をしるして云わく、三月十五日、御即位行幸の儀式、関白殿・左大将以下、供奉の人々、めずらしく面白し。かみあげの内侍、この御所より、少将の内侍・しょうの内侍なり。御所御しょうぞくめされぬ。殿入らせ給う。召し仰せはてぬるよし、奉行のしきじ申せば、南殿へならせ給う。御輿に召されぬれば、かんのちょうへ、いそぎこうとうもまいる。かみあげのとくせんもうけたれば、車のしりにのせて、かんのちょうの北むきよりまいりて、かみあげしたためて、あした所の南むきに、勾当とさぶらえば、ようよう行幸ちかづかせおわしますとて、ぐぶの公卿しだいにれちに立ちたり。御輿よらせ給いぬ。関白殿、御したがさねひきなおしまいらせらる。公卿のすけまいりて、けんしとりて、内侍につたえて後、御輿につきて、みつなのすけそうぞきぬ。奏はてて、主上入らせ給えば、殿御簾にまいらせ給い、ひさしのみすあらわより、しきじあきよたれたれは、御もやの御簾あげられて、主上大しょうじにわたらせ給う。けんしも大しょうじにおき奉りて、内侍あした所の北むきに出でてさぶらう。
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『玉勝間』一の巻 天皇礼服御冠のさだ同記に云う、仁治三年三月十日、御即位の礼服の御覧、去る八日なり、而るに御冠破損し、実無し、今日内々なお沙汰有るべしと云う、御冠堅固に実無し、金銅・珠玉の類は、先年盗人の為に盗み取らるるか、一切見えず、只御冠の羅少々許り相残り、また珠玉少分落ち残る、其の正躰に及ばざるの由、云々、仍て其の由を申す、此の上は治め難き事なり、東大寺の宝蔵に天子の御冠二額相残るか、若し模すべくば、召し出さるべきか、年序久しく隔たり慥かに覚悟せず、然れども大旨は相似たるかの由覚ゆる所なり、云々、但し佐保朝廷(聖武か)の礼冠の図、東大寺に御納めの御冠の納物か、同じく之を下さるるの間、燈下に於いて之を見る、イトモ覚悟せざるの由申す所なり、前内府帰り出でて仰せて云う、東大寺の御冠の事、思し食し寄らざるの処、今申さしむる旨、尤も感じ思し食す所なり、十四日、伝え聞く、一昨日右少弁時継拝賀を申し、即ち東大寺に向かうと云う、今朝已に上洛すと云う、御冠到来す、但し太上天皇の御冠、并びに前帝の御冠、内裏に取り入れらるべからざるか、云々、就中太上天皇の御冠を以て本様と為し、已に入道相国の許に遣わさると云う、此の条殊に驚き聞く、云々、残る所の御冠、また数頭有り、之を取り出して見給わる、また礼服の御裳の事仰せ出さる、即ち之を取り出さる、残る所の御裳、内蔵寮を召し遣わし、暫く祗候して見るべきの由仰せらる、然れども蔵人佐云う、今に於いては、女帝の礼服、前皇后・太子の礼服、童帝はまた短小の礼服許りなり、見るに及ばざるかと云う、十七日、云々御冠已に出で来たり了んぬ、只今〓せしむと云う。
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『玉勝間』二の巻 天皇御元服のよしを山陵に告給ふ宣命同記に、天皇が詔旨と、掛けまくも畏き其の山陵に〓申し賜えと申さく、公卿議り奏さく、明年は、天皇御歳を加え給い漸々、冠の年近くなり給うべし、冠は成人の始めにして、盛礼の嘉事なり、来る正月の吉日良辰に、元服を加え奉りて、人望に叶うべしと奏せり、掛けまくも畏き山陵の広き助けに依りて、平らけく安らけく果たし行わしめ給うべし、故に是を以て此の状を、官位姓名を差し使わして、恐み恐みも申し賜わくと奏す。寛仁元年十二月十九日。
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