玉勝間 / 十の巻 皇祖母尊
書紀皇極天皇ノ御卷に、吉備ノ嶋ノ皇祖母ノ命と有るは、吉備姫王の御事にて、天皇の大御母に坐り。又孝德天皇ノ御卷に、奉號於豐財天皇、曰皇祖母尊と有りて、これより斯く申せるは、皇極天皇の御事にて、皇太子中ノ大兄ノ皇子の御母にまして、天皇の御ためには、大御姉命に坐スを、その御讓リを承嗣せ給へるが故に、大御母と崇め申シ給へるなるべし。そもそも御母をしも、祖母と申せるは如何にと云ふに、すべて古、には、直に己を生る父母に限らず、世世遠祖までにわたりて、淤夜と云ひたりし故に、古書には、遠祖をも、父母をも通はして、多く祖と書り。されば是れもそのでうにて、祖母とは、親母と云ふ意にて書れたるものなり。漢文の祖母の意にはあらず。大かた書紀は、何事も、漢文のでうに記されたれども、これらは、そのかみ現に書れたる文字のままに記されたるなり。上ノ件の意をえずは、此祖母と有る文字、心得がたかるべし。
新字:書紀皇極天皇ノ御巻に、吉備ノ嶋ノ皇祖母ノ命と有るは、吉備姫王の御事にて、天皇の大御母に坐り。又孝徳天皇ノ御巻に、奉号於豊財天皇、曰皇祖母尊と有りて、これより斯く申せるは、皇極天皇の御事にて、皇太子中ノ大兄ノ皇子の御母にまして、天皇の御ためには、大御姉命に坐スを、その御譲リを承嗣せ給へるが故に、大御母と崇め申シ給へるなるべし。そもそも御母をしも、祖母と申せるは如何にと云ふに、すべて古、には、直に己を生る父母に限らず、世世遠祖までにわたりて、淤夜と云ひたりし故に、古書には、遠祖をも、父母をも通はして、多く祖と書り。されば是れもそのでうにて、祖母とは、親母と云ふ意にて書れたるものなり。漢文の祖母の意にはあらず。大かた書紀は、何事も、漢文のでうに記されたれども、これらは、そのかみ現に書れたる文字のままに記されたるなり。上ノ件の意をえずは、此祖母と有る文字、心得がたかるべし。
書き下し
書紀皇極天皇の御巻に、吉備の嶋の皇祖母の命と有るは、吉備姫王の御事にて、天皇の大御母に坐せり。また孝徳天皇の御巻に、豊財天皇に号を奉りて、皇祖母尊と曰すと有りて、これよりかく申せるは、皇極天皇の御事にて、皇太子中の大兄の皇子の御母にまして、天皇の御ためには、大御姉命に坐すを、その御譲りを承け嗣がせ給えるが故に、大御母と崇め申し給えるなるべし。そもそも御母をしも、祖母と申せるは如何にと云うに、すべて古には、直に己を生める父母に限らず、世々遠祖までにわたりて、淤夜と云いたりし故に、古書には、遠祖をも、父母をも通わして、多く祖と書けり。されば是れもそのじょうにて、祖母とは、親母と云う意にて書かれたるものなり。漢文の祖母の意にはあらず。大かた書紀は、何事も、漢文のじょうに記されたれども、これらは、そのかみ現に書かれたる文字のままに記されたるなり。上の件の意をえずは、この祖母と有る文字、心得がたかるべし。
現代語訳
日本書紀の皇極天皇の巻に「吉備嶋皇祖母命(きびのしまのすめみおやのみこと)」とあるのは、吉備姫王の御事で、天皇の御母でいらっしゃる。また孝徳天皇の巻に「豊財天皇(皇極天皇)に号を奉って、皇祖母尊と申し上げる」とあって、これ以後こう申し上げるのは皇極天皇の御事で、皇太子中大兄皇子の御母でいらっしゃり、孝徳天皇にとっては姉君でいらっしゃるのを、その御譲位を受け継がれたために、御母として崇め申し上げられたのであろう。そもそも御母のことを「祖母」と申し上げたのはなぜかと言えば、総じて古くは、直接自分を生んだ父母に限らず、代々の遠い祖先にまでわたって「おや」と言ったので、古い書物には遠い祖先をも父母をも通わせて、多く「祖」と書いている。だからこれもその仕方で、「祖母」とは「親である母」という意味で書かれたものである。漢文の祖母(父母の母)の意味ではない。おおかた書紀は何事も漢文の書き方で記されているが、これらは当時実際に書かれていた文字のままに記されたのである。上の件の意味を理解しなければ、この「祖母」とある文字は理解しにくいだろう。
解説
関連する章句
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『玉勝間』七の巻 皇孫天孫と申す御号邇邇芸の命より始め奉りて、御代御代の天皇を、皇御孫命とも、天神御子とも申すを、書紀の神代の巻に、皇孫また天孫と書かれたるは、ともに古言にあらず。皇孫とは、皇御孫の命と申す御号を、例の漢文ざまに、つくられたるなり。他の古書どもには皆、皇御孫の命と見えて、続紀の歌に、皇をはぶきて、御孫命とは訓みたる事有れども、命をはぶきて申せる事は見えず。まして天孫と申せることは、古き文には、すべて見えず。天孫とは、天神御子と申すを、つくりかえられたる文字と見えたり。然るを世の人、ひたぶるに漢文ざまのうるわしき方を好むならいと成りては、この皇孫・天孫と申す御号のみひろまりて、かえりて皇御孫の命・天つ神の御子と申す、古のまことのうるわしき御号はかくれたるがごとし。皇孫はすめみま、天孫はあめみまと訓みたれども、文字になずまで、皇孫をば、すめみまのみことと訓み奉るべく、天孫をば、あまつかみのみこと訓み奉りて古のまことの御号を、ひろくせまほしきわざなり。あめみまと云うは、殊に拙なく、よし無き訓なるをや。
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『玉勝間』十四の巻 こまのこきしを神子と詔り給へる事同じく孝徳天皇の御巻、高麗国の使に詔える大命に、明神と御宇す日本天皇の詔旨、天皇の遣わす所の使と、高麗の神の子の奉遣する所の使と云云、かの国王を、神の子とのたまえり。これも神とは、はじめ国を建てし神を云いて、子はその末のよしか、はた御みずから明神と詔えるに対えて、天皇の子と、親しみて詔えるか。いずれにまれ漢文の詔に、めずらしくおむかしき称にぞ有りける。
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『玉勝間』十四の巻 氏族を腹と云へる事書紀清寧天皇の御巻にその腹の所生星川の皇子とある、腹は、氏族のことなり。うじもしくはうがらなど訓むべし。又欽明天皇の御巻に、韓の腹、推古天皇の御巻に、八腹の臣等などあるも、皆然り。続紀にも、三十二に、三腹遞いに任ず、三十八に、臣八腹の氏、四十に、自余の三腹は、またその入彦命の子孫、東国の六腹の朝臣云云、姓氏録秦の忌寸の条に、秦氏等一祖十孫、別れて数腹とある、皆同じ。これもと韓国より出でたる称なるべし。かの国には、郡を評と云えるなど、このたぐいこれかれ有り。
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『神皇正統記』巻三 第四十一代 持統天皇第四十一代、持統天皇は天智の御女也。御母越智娘、蘇我の山田石川丸の大臣の女也。天武天皇、太子にましまししより妃とし給。後に皇后とす。皇子草壁わかくましまししかば、皇后朝にのぞみ給。戊子年也。庚寅の春正月一日即位。大倭の藤原の宮にまします。草壁の皇子は太子に立給しが、世をはやくし給。よりて其御子軽の王を皇太子とす。文武にまします。前の太子は後に追号ありて長岡天皇と申。此天皇天下を治給こと十年。位を太子にゆづりて太上天皇と申き。太上天皇と云ことは、異朝に、漢高祖の父を太公と云、尊号ありて太上皇と号す。其後後魏の顕祖・唐高祖・玄宗・睿宗等也。本朝には昔は其例なし。皇極天皇位をのがれ給しも、皇祖母の尊と申き。此天皇よりぞ太上天皇の号は侍る。五十八歳おましましき。
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『玉勝間』九の巻 后妃内親王など院号の事同書に、応保元年、十二月十六日、無品内親王(障子)を以て八条院と為す、伊通公の申状に、帝王の養母の儀、元延喜より始まる事なり、所謂温子(九条殿の女)なり、貴くして皇太后と為す、寛平法皇先例無しと申さしめ、仍りて然るべからざるの由給う、然れども例に依るべからず、母儀を存ぜしめ給うの由、之を仰せらる、女院は東三条院より始まる、院号は后より貴きか、将た賤しきかの由、法家に問わるべし、小一条院は、元東宮なり、而るに院号の後、三宮の下たるべきの由宣下す、太上天皇は別なり、只の院号は、更に后位より貴かるべからざる事なり。
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『玉勝間』四の巻 宮と申す称天皇の御胤を宮と申す事、古えは皇子皇女にかぎれり。皇子の御子よりしては、宮と申す事無かりき。然るを中ごろよりして、皇子の御子をも申し、近くは親王の御すじをば、世々すべて宮と申す事となれり。
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