導師導古典を学びたいすべての人に

神皇正統記 / 巻三 第四十一代 持統天皇

第四十一代、持統天皇は天智の御女也。御母越智娘、蘇我の山田石川丸の大臣の女也。天武天皇、太子にまし〳〵しより妃とし給。後に皇后とす。皇子草壁わかくまし〳〵しかば、皇后朝にのぞみ給。戊子年也。庚寅の春正月一日即位。大倭の藤原の宮にまします。草壁の皇子は太子に立給しが、世をはやくし給。よりて其御子軽の王を皇太子とす。文武にまします。前の太子は後に追号ありて長岡天皇と申。此天皇天下を治給こと十年。位を太子にゆづりて太上天皇と申き。太上天皇と云ことは、異朝に、漢高祖の父を太公と云、尊号ありて太上皇と号す。其後後魏の顕祖・唐高祖・玄宗・睿宗等也。本朝には昔は其例なし。皇極天皇位をのがれ給しも、皇祖母の尊と申き。此天皇よりぞ太上天皇の号は侍る。五十八歳おまし〳〵き。

書き下し

第四十一代、持統天皇は天智の御女也。御母越智娘、蘇我の山田石川丸の大臣の女也。天武天皇、太子にましまししより妃とし給。後に皇后とす。皇子草壁わかくましまししかば、皇后朝にのぞみ給。戊子年也。庚寅の春正月一日即位。大倭の藤原の宮にまします。草壁の皇子は太子に立給しが、世をはやくし給。よりて其御子軽の王を皇太子とす。文武にまします。前の太子は後に追号ありて長岡天皇と申。此天皇天下を治給こと十年。位を太子にゆづりて太上天皇と申き。太上天皇と云ことは、異朝に、漢高祖の父を太公と云、尊号ありて太上皇と号す。其後後魏の顕祖・唐高祖・玄宗・睿宗等也。本朝には昔は其例なし。皇極天皇位をのがれ給しも、皇祖母の尊と申き。此天皇よりぞ太上天皇の号は侍る。五十八歳おましましき。

現代語訳

第四十一代、持統天皇は天智天皇の娘である。母は越智娘(おちのいらつめ)で、蘇我山田石川丸大臣の娘である。天武天皇が太子であられたときから妃とされた。のちに皇后とされた。皇子の草壁がお若くいらっしゃったので、皇后が朝廷に臨まれた。戊子の年のことである。庚寅の春正月一日に即位された。大和の藤原宮におられた。草壁皇子は太子に立たれたが、早く世を去られた。それでその御子の軽王を皇太子とした。これが文武天皇であられる。前の太子(草壁皇子)はのちに追号があって長岡天皇と申し上げる。この天皇が天下を治められたのは十年で、位を太子に譲って太上天皇と申し上げた。太上天皇ということは、異国では、漢の高祖の父を太公といい、尊号があって太上皇と号した。その後、後魏の顕祖、唐の高祖・玄宗・睿宗などである。我が国には昔はその例がなかった。皇極天皇が位を退かれたときも、皇祖母尊と申し上げた。この天皇から太上天皇の号があるのである。五十八歳であられた。

解説

持統天皇は天武の皇后で、子の草壁皇子が若いうちに天武が亡くなったため、まず皇后として政務に臨み、のちに即位した。草壁が早世すると、その子の軽王、のちの文武天皇を皇太子とし、位を譲る。親房がここで特に取り上げるのは、太上天皇という称号の始まりである。中国の例を漢から唐まで挙げたうえで、日本ではそれまで例がなく、皇極が位を退いたときも皇祖母尊と呼んだにすぎないと区別する。退位した天皇が太上天皇として残るこの形は、のちに院政として朝廷の権力の中心そのものになっていく。親房の時代には上皇が治天の君として実権を握ることが当たり前になっていたが、その制度の起点を、親房は持統に置いて記している。退いた人が称号を持って残ることは、組織に知恵を残す一方で、権力の所在を二重にもする。

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る