玉勝間 / 九の巻 后妃内親王など院号の事
同書に、應保元年、十二月十六日、以無品內親王、(障子)爲八條院、伊通公申狀、帝王養母之儀、元始自延喜事也、所謂溫子(九條殿女)也、貴爲皇太后、寛平法皇令申無先例、仍不可然之由給、然而不可依例、令存母儀給之由、被仰之、女院始自東三條院、院號貴於后歟、將賤歟之由、可被問法家、小一條院、元東宮也、而院號之後、可爲三宮下之由宣下、太上天皇者別也、只院號、更ニ不可貴於后位事也。
新字:同書に、応保元年、十二月十六日、以無品内親王、(障子)為八条院、伊通公申状、帝王養母之儀、元始自延喜事也、所謂温子(九条殿女)也、貴為皇太后、寛平法皇令申無先例、仍不可然之由給、然而不可依例、令存母儀給之由、被仰之、女院始自東三条院、院号貴於后歟、将賤歟之由、可被問法家、小一条院、元東宮也、而院号之後、可為三宮下之由宣下、太上天皇者別也、只院号、更ニ不可貴於后位事也。
書き下し
同書に、応保元年、十二月十六日、無品内親王(障子)を以て八条院と為す、伊通公の申状に、帝王の養母の儀、元延喜より始まる事なり、所謂温子(九条殿の女)なり、貴くして皇太后と為す、寛平法皇先例無しと申さしめ、仍りて然るべからざるの由給う、然れども例に依るべからず、母儀を存ぜしめ給うの由、之を仰せらる、女院は東三条院より始まる、院号は后より貴きか、将た賤しきかの由、法家に問わるべし、小一条院は、元東宮なり、而るに院号の後、三宮の下たるべきの由宣下す、太上天皇は別なり、只の院号は、更に后位より貴かるべからざる事なり。
現代語訳
同じ書(『百練抄』)に、応保元年(1161)十二月十六日、無品の内親王(暲子)を八条院とした。藤原伊通公の申状には次のようにある。帝王の養母という扱いは、もと延喜の御代に始まったことで、いわゆる温子(九条殿の娘)である。尊んで皇太后とした。寛平法皇(宇多法皇)は先例がないと申させ、よって然るべきでない旨を仰せになった。けれども先例によるべきではない、母としての礼を尽くさせよと仰せられた。女院は東三条院から始まる。院号は后より尊いのか、それとも低いのかは、法家(法律の学者)に問われるべきである。小一条院はもと東宮であったが、院号を受けたのち、三宮(皇后・皇太后・太皇太后)の下とすべきだと宣下された。太上天皇は別である。ただの院号は、決して后の位より尊いものではない、とある。
解説
関連する章句
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『玉勝間』六の巻 むかしの女御の位階延喜天暦などの頃になりては、女御と申すは、皇后につぎて、いにしえの妃夫人などのつらに当たりて、いと貴かりしにあわせては、なお位階はひきくぞ有りけん。小野の宮の左大臣の御女の女御の、天暦元年にかくれ給えりし、四十九日の願文に、女御贈従四位上藤原朝臣とぞ見えたる、これらも文粋に有り。
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『玉勝間』四の巻 門院と申す御号の事同じ書に、上東門院の建てさせ給える、東北院の事を云える所に云わく、この堂土御門の末にあたりて、上東門院と申すなり。この後代々の女院の院号、かどの名聞こえ侍るめり。陽明門も、近衛に当たりたれば、この例によりてつかせ給えり。郁芳門・待賢門などは、大炊の御門・中の御門に御所おわしまさねど、なそらえてつかせ給えりとぞ聞こえ侍る。待賢門院の院号のさだめ侍りけるに、なそらえてつかせ給うならば、などさしこえて、郁芳門院とはつけ奉りけるにか、など聞こえければ、あきかたの中納言と云いし人の、この御料にのこして置かれけるにこそ侍るめれ、と申されけるとかや、さてぞつかせ給いにけるとなむ。みかどの御前などにては、つちみかど、このえなどは申さで、上東門のおおじよりはいづかた、陽明門の大路よりはそなた、などぞ奏すなる。されば一条二条など申すにも、同じこころなるべしと有り。栄花物語くれまつ星の巻に、陽明門院を、ようめいもんの院とあり。そのかみはいづれも、かく某門の院と、のを入れて申しけるにこそ。さも有るべき事なり。
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『玉勝間』八の巻 上東門院左経記、万寿三年正月十九日、大皇大后御祝髪の事を記せるところに、御在所上東門院を以て院号と為す、と有り。斯かれば上東門院と云うは、もとより御在所の名なりけり。
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『玉勝間』五の巻 東宮の御息所 東宮の女御又かの伊勢物語の東宮の女御を、真名本には、これも東宮の御息所と有るによりて、東宮の女御と云うことは、この書の頃には、云うべき事ともおぼえぬ俗語なり、と云い消たれたるもひが事なり。そもそも歌集の詞書、また物語ぶみなどは、古えとても、国史などのたぐいとは異にして、かようの称呼なども、これただ当時世間に云いならえるままにしるせる事多ければ、さのみことわりをもて、正すべきわざにあらず。そもそも後宮の御さだめ、古えは皇后の次に妃、次に夫人、次に嬪にて、女御と云うは、日本紀の雄略の御巻にこそ見えたれ、その後は聞えざりしを、仁明文徳の御世の頃よりしては、妃、夫人など申すは、おさおさ聞えずして、ただ皇后の次は女御、その次は更衣にて、女御は親王大臣の御女の成り給いて、いにしえの妃夫人にあたり、更衣は大かた嬪にあたれり。世の移れるままに、古えとはかわれる事、かくのごとくなれば、なずらえて、延喜の頃、はやく東宮の御母を、その御息所とも、その女御とも申しけむ事、何かは疑うべき。
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『玉勝間』十三の巻 更衣同紀に承和九年正月丙申朔戊戌、天皇太上天皇及び、太皇太后宮に嵯峨院に朝覲す、云云、是の日、詔して従五位下秋篠朝臣康子に、正五位下、无位山田宿禰近子に、従五位上を授く、並びに太上天皇の更衣なり。と見ゆ。この更衣と云う物は、いずれの御代のころより有りそめけむ。物に見えたる事は、これ始めなり。そもそも後宮職員令には、妃二員、右四品以上。夫人三員、右三位以上。嬪四員、右五位以上。宮人と有るを、中昔よりこなたは、これらの号は絶えて、大かた妃夫人にあたる程なるをば、女御とし、嬪にあたる程なるをば、更衣とせらる。三代実録六の巻に光孝天皇の更衣と云うことも見え、また仁和三年には、勅す。更衣従五位上藤原朝臣元善を以て、女御と為す、中納言従三位山陰の女なりとも見えたり。
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『玉勝間』五の巻 東宮の御息所 東宮の女御古今集に、二条の后の、東宮のみやすん所と聞えける時云云、いせ物語に、昔、東宮の女御の御方の云云と有る。まず二条の后は、清和天皇の中宮なり。貞観八年に、女御となり給い、同十年に、貞明親王を生み奉り給い、同十一年に、その親王皇太子に立たせ給う。これ陽成天皇におわします。これよりして、元慶元年に、中宮となり給うまでのあいだ、女御にて、皇太子の御母にましますを以て、東宮の女御とも、東宮の御息所とも申せること、契沖が余材抄、勢語臆断などに云えるがごとし。東宮の御母女御、御母御息所と云うことなり。御息所と申す称は、女御にまれ更衣にまれ、皇子皇女を生み奉り給える人を申す称なり。その趣源氏物語などを見て知るべし。かの物語に、桐壺の更衣などをも光源氏の君を生み奉られたる後は、御息所と云えること有り。その外も皆然かなり。然るを後の世に至りて、これを誤りて、御息所と申すを、東宮の妃の御事と心得たるから、この古今集いせ物語なるをも、清和天皇の東宮にて、ましましける時の御息所なり、と云う注あるは、いみじきひが事なり。東宮の妃を御息所と申すは、いたく後の世の俗称にこそあれ、古えにはかつて無き事なり。
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