玉勝間 / 十の巻 なまじひ
躬恒歌に、「あらたまの年の四とせをなまじひに身を捨てがたみわびつつぞすむ。家集に見えたり。
書き下し
躬恒歌に、「あらたまの年の四とせをなまじいに身を捨てがたみわびつつぞすむ。家集に見えたり。
現代語訳
凡河内躬恒の歌に、「年の四年を、なまじっか身を捨てきれないために、わびしく思いながら住んでいることだ」とある。家集に見える。
解説
「なまじい(なまじっか)」という語の古い用例を、凡河内躬恒の家集から一首挙げただけの短い段である。躬恒は古今集の撰者の一人で、紀貫之と並ぶ平安前期の歌人である。歌は、四年という年月を、いっそ身を捨ててしまうこともできず、中途半端なまま嘆きながら暮らしている、と詠む。なまじいは、しなくてもよいのに無理にする、中途半端にする、という意味で、今でも「なまじ手を出すから」などと使う。宣長は、こうした口語めいた言葉が、平安の歌人の歌にすでに使われていることを示すために書き留めたのだろう。俗語と雅語をはっきり分けがちな歌学の常識に対して、今の話し言葉にも古い根があることを、用例一つで示している。
関連する章句
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