玉勝間 / 十の巻 なごり
六帖に、「うつくしと見るたびごとになでしこの花のなごりは惜しくやはあらぬ。此なごりは、近き世に云ふなごりの意に聞えたり。
書き下し
六帖に、「うつくしと見るたびごとになでしこの花のなごりは惜しくやはあらぬ。このなごりは、近き世に云うなごりの意に聞えたり。
現代語訳
古今和歌六帖に、「かわいらしいと見るたびごとに、なでしこの花の名残は惜しくないことがあろうか(惜しいものだ)」とある。この「なごり」は、近い世に言う「なごり」の意味に聞こえる。
解説
「なごり」という語の意味の移り変わりに目を留めた短い段である。なごりはもともと、波が引いた後に残る水や、風が止んだ後もしばらく立つ波など、物事が過ぎ去った後に残る気配を言う語だったとされる。宣長は古今和歌六帖のなでしこの歌を挙げ、ここの「なごり」は、別れを惜しむ気持ちや過ぎたものへの心残りという、近世に普通に使われる意味に聞こえると指摘する。今の用法がすでに平安の歌に芽生えていたということである。言葉は一気に変わるのではなく、ある時期には古い意味と新しい意味が重なり合って使われる。一首の歌の中にその重なりを見つける読みの細かさが、この短い段に表れている。
関連する章句
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『玉勝間』六の巻 なづさふ万葉集に、なずさうと云う言、あまた所に見えたり。昔より、この詞を解きたる説、皆あたらず。今その歌どもを、あまねく考え合するに、或いは海川などに浮かべること、或いは船より渡る事などに云い、枕詞にも、引網の、鳥じもの、におどりのなど云いて、いずれもいずれも、水に着く事にのみ云えり。水によらぬは一つも無し。集の中の歌どもを、試みて知るべし。その中に、三の巻なる長歌に、「いかならむ年の月日か、つつじ花かぐわし君が、引網のなずさいこむと云云、これは上にも下にも、海川などの事見えねども、他の例をもて思うに、海路を経て帰り来べき国の人なるべし。また九の巻の長歌の反歌に、「いとま有らばなずさいわたり云云、これも海川の事は見えざれども、渡りと云い、長歌にも、滝のうえのと有れば、山川を渡りゆく事なり。この外はみな、海また川などにのみ詠めれば、論無し。然るにこの詞、中昔の物語書などに云えるは、いたく意異にして、馴れ親しむ事に云えり。神楽の歌に、「すめ神の御手にとられてなずさわましを、と有るも然かなり。いかにしてかくまでは移りかわりけん。万葉に云えるとは、いささかも似よれるかた無し。
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『玉勝間』十の巻 なまじひ躬恒歌に、「あらたまの年の四とせをなまじいに身を捨てがたみわびつつぞすむ。家集に見えたり。
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『玉勝間』八の巻 言の然云ふ本の意を知らまほしくする事たとい其もとの意は、よく明らめたらむにても、いかなる所に使いたりと云う事を知らでは、何のかいも無く、おのが歌文に用うるにも、ひがことの有るなり。今の世古学をするともがらなど殊に、すこし遠き言と云えば、まず然云う本の意を知らむとのみして、用いたる意をば、考えむともせざる故に、おのが使うに、いみじきひがことのみ多きぞかし。すべて言は、然云う本の意と、用いたる意とは、多くは等しからぬ物なり、たとえばなかなかにと云う言はもと、こなたへもかなたへも附かず、中間なる意の言なれども、用いたる意はただ、なまじいにと云う意、又移りては、かえりてと云う意にも用いたり。然るを言の本によりて、打まかせて、中間なる意に用いては、たがうなり。又心ぐるしと云う言は、今の俗言に、気毒なると云う意に用いたるを、言のままに、心の苦き事に用いては、たがえり。されば是等にて、万の言をも、なずらえ心得て、まず古えに用いたるようを、さきとして、明らめ知るべし、言の本にのみよりては、中々に古えにたがう事多かるべしかし。
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『玉勝間』十二の巻 事のはじめてそのきはになるを口と云ふ事俗語に、事の始めてその際になるを、なにがし口と云うこと、ふるし。拾遺集物の名に、くち葉色の折敷、あしひきの山の木の葉のおち口は色の惜しきぞあわれなりける。
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『玉勝間』十の巻 歌の題の望の字のよみ歌の題に夕望など有る、望の字はのぞみと訓むべきにや。続世継に、ことところのゆうべののぞみよりも、難波のあしでと見えむ、げにときこえ侍りと有り。
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『玉勝間』十の巻 しをり六帖に、山の題の歌に、「しおりして行かまし物をあいづ山いるよりまどう道と知りせば。しおりと云う物、これに見えたるなどや、始めならむ。なお古く有るか、覚えずなん。
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