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玉勝間 / 十の巻 はじめを濁る詞

言のはじめを濁るも、稀れ稀れには有るは、蒲、石榴、楚、斑、紅粉などの如し。これら古き物にも見えたる詞なり。後世にこそ濁りて云へ、古、はみな清て云へりしなり。此外にも猶有べし、皆同じことなり。蒲は、蒲生など云ふ時は、今も清り。ざくろは、石榴の字の音なるべし、されど六帖の題にも有り、芭蕉なども、古今集の物名に、はせをばと有るは、上のハもじ、古、は清てぞ云ひけむ。楚は末枝なり、末をスワと云ふは、聲をコワヅクリなど云ふと同じ。斑は、神代紀にも、斑駒と見えたり、是れをムチゴマとも訓るは、古、はフを清る事を知らずして、鞭をも俗にブチと云ふにならひて、これをもムチなるべしと心得たる、おしあてなり。紅粉は、和名抄に經粉と見えたり。上の件の外に、ゲニと云ふ言は、現の字の音にて、後のことなり。塲は、古くも大庭馬塲などは見えたれど、ただ塲と云へることは見えず。こはもとニハにて、大庭はオホニハ、馬塲はウマニハなるを、音便にバとは云ひなせるなり。又可如などのたぐひは、上に言有て續く意なれば、異ことなり。

新字:言のはじめを濁るも、稀れ稀れには有るは、蒲、石榴、楚、斑、紅粉などの如し。これら古き物にも見えたる詞なり。後世にこそ濁りて云へ、古、はみな清て云へりしなり。此外にも猶有べし、皆同じことなり。蒲は、蒲生など云ふ時は、今も清り。ざくろは、石榴の字の音なるべし、されど六帖の題にも有り、芭蕉なども、古今集の物名に、はせをばと有るは、上のハもじ、古、は清てぞ云ひけむ。楚は末枝なり、末をスワと云ふは、声をコワヅクリなど云ふと同じ。斑は、神代紀にも、斑駒と見えたり、是れをムチゴマとも訓るは、古、はフを清る事を知らずして、鞭をも俗にブチと云ふにならひて、これをもムチなるべしと心得たる、おしあてなり。紅粉は、和名抄に経粉と見えたり。上の件の外に、ゲニと云ふ言は、現の字の音にて、後のことなり。塲は、古くも大庭馬塲などは見えたれど、ただ塲と云へることは見えず。こはもとニハにて、大庭はオホニハ、馬塲はウマニハなるを、音便にバとは云ひなせるなり。又可如などのたぐひは、上に言有て続く意なれば、異ことなり。

書き下し

言のはじめを濁るも、稀れ稀れには有るは、蒲、石榴、楚、斑、紅粉などの如し。これら古き物にも見えたる詞なり。後世にこそ濁りて云え、古はみな清みて云えりしなり。この外にもなお有るべし、皆同じことなり。蒲は、蒲生など云う時は、今も清めり。ざくろは、石榴の字の音なるべし、されど六帖の題にも有り、芭蕉なども、古今集の物名に、はせおばと有るは、上のハもじ、古は清みてぞ云いけむ。楚は末枝なり、末をスワと云うは、声をコワヅクリなど云うと同じ。斑は、神代紀にも、斑駒と見えたり、これをムチゴマとも訓めるは、古はフを清める事を知らずして、鞭をも俗にブチと云うにならいて、これをもムチなるべしと心得たる、おしあてなり。紅粉は、和名抄に経粉と見えたり。上の件の外に、ゲニと云う言は、現の字の音にて、後のことなり。場は、古くも大庭馬場などは見えたれど、ただ場と云えることは見えず。こはもとニワにて、大庭はオオニワ、馬場はウマニワなるを、音便にバとは云いなせるなり。また可如などのたぐいは、上に言有りて続く意なれば、異ことなり。

現代語訳

言葉の初めを濁るのも、まれにはあるのは、蒲(がま)、石榴(ざくろ)、楚(ずわえ)、斑(ぶち)、紅粉(べに)などのようなものである。これらは古い書物にも見える言葉である。後世にこそ濁って言うが、古くはみな清んで言ったのである。このほかにもなおあるだろうが、みな同じことである。蒲は、「蒲生(かもう)」などと言うときは今も清んでいる。「ざくろ」は石榴の字の音であろうが、古今和歌六帖の題にもある。芭蕉なども、古今集の物名の歌に「はせをば」とあるのは、上の「ば」の字を、古くは清んで「は」と言ったのだろう。楚は「末枝(すええだ)」である。末を「すわ」と言うのは、声を「こわづくり」などと言うのと同じである。斑は、日本書紀の神代の巻にも「斑駒(ふちこま)」と見えている。これを「むちごま」とも訓んでいるのは、古くは「ふ」を清んで言ったことを知らずに、鞭をも俗に「ぶち」と言うのにならって、これも「むち」であろうと心得た当て推量である。紅粉は、和名抄に「経粉(へに)」と見えている。上の件のほかに、「げに」という言葉は「現」の字の音で、後世のことである。「場」は、古くも「大庭」「馬場」などは見えるが、ただ「場(ば)」と言ったことは見えない。これはもとは「にわ」で、大庭は「おおにわ」、馬場は「うまにわ」であるのを、音便で「ば」と言いなしたのである。また「可(べし)」「如(ごとし)」などの類いは、上に言葉があって続くものなので、別のことである。

解説

日本語の古い音の規則について述べた段である。古い日本語では濁音が語頭に来ないのが原則で、宣長は、がま・ざくろ・ずわえ・ぶち・べになど語頭が濁る語も、古くは清音で言ったと説く。蒲生を今も清んで読むことや、古今集の物名の歌の「はせをば」、和名抄の「経粉」の表記を証に挙げ、書紀の斑駒を「むちごま」と訓むのは古い清音を知らない当て推量だと退ける。「げに」は漢字音から来た後の言葉、「ば(場)」はもと「にわ」が音便で変わったものとと説明をつける。「べし」「ごとし」は上の語に続けて使うので語頭とは言えないと断り、規則の及ぶ範囲まで丁寧に定めている。こうした音の法則の研究は古事記の訓みを定める土台であり、後の国語学に大きな影響を与えた。

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