玉勝間 / 一の巻 からぶみ読みのことば
漢籍を讀むに、世のつねにことなる語の多きは、いと古くより讀み來つるままの古語なるが、後に音便にくづれたるなり。曰をノタウマクと訓むは、ノタマハクの音便なり。又ノタバクにても有べし。古言に、フをタブ共云ふ故に、萬。葉の歌に、ノタマハクを、ノタバク共詠めればなり。故をカルガユヱニと訓むは、カルガユエニなるを、カを一つはぶけるなり。是れは音便と云ふには有らず。然而をシカウシテと訓むは、シカシテに、ウを添たるにて、八日をヤウカ、女房をニヨウバウといふ類なり。是以をコレヲモテと訓まずして、ココヲモテと訓むは、古言のままなり。古言には、コレと云ふべきを、ココと云へる事つねに多し。さて以をモツテとひきつめて訓むは、例のいやしき音便なり。慮をオモンハカル、以をオモンミルと訓むは、オモヒハカル、オモヒミルなり。垂をナンナントスと訓むは、ナリナムトスなり。然るをナンナンタリとも訓むはひがことなり。欲をホツスと訓むは、ホリスなり。件をクダンノとよむは、クダリノなり。親をシタシンズ、重をオモンズ、賤をイヤシンズと訓むたぐひは、シタシミス、オモミス、イヤシミスにて、皆古言の格なり。
新字:漢籍を読むに、世のつねにことなる語の多きは、いと古くより読み来つるままの古語なるが、後に音便にくづれたるなり。曰をノタウマクと訓むは、ノタマハクの音便なり。又ノタバクにても有べし。古言に、フをタブ共云ふ故に、万。葉の歌に、ノタマハクを、ノタバク共詠めればなり。故をカルガユヱニと訓むは、カルガユエニなるを、カを一つはぶけるなり。是れは音便と云ふには有らず。然而をシカウシテと訓むは、シカシテに、ウを添たるにて、八日をヤウカ、女房をニヨウバウといふ類なり。是以をコレヲモテと訓まずして、ココヲモテと訓むは、古言のままなり。古言には、コレと云ふべきを、ココと云へる事つねに多し。さて以をモツテとひきつめて訓むは、例のいやしき音便なり。慮をオモンハカル、以をオモンミルと訓むは、オモヒハカル、オモヒミルなり。垂をナンナントスと訓むは、ナリナムトスなり。然るをナンナンタリとも訓むはひがことなり。欲をホツスと訓むは、ホリスなり。件をクダンノとよむは、クダリノなり。親をシタシンズ、重をオモンズ、賤をイヤシンズと訓むたぐひは、シタシミス、オモミス、イヤシミスにて、皆古言の格なり。
書き下し
漢籍を読むに、世のつねにことなる語の多きは、いと古くより読み来つるままの古語なるが、後に音便にくづれたるなり。曰をノタウマクと訓むは、ノタマハクの音便なり。またノタバクにても有るべし。古言に、フをタブとも云う故に、万葉の歌に、ノタマハクを、ノタバクとも詠めればなり。故をカルガユヱニと訓むは、カルガユエニなるを、カを一つはぶけるなり。是れは音便と云うには有らず。然而をシカウシテと訓むは、シカシテに、ウを添えたるにて、八日をヤウカ、女房をニヨウバウという類なり。是以をコレヲモテと訓まずして、ココヲモテと訓むは、古言のままなり。古言には、コレと云うべきを、ココと云える事つねに多し。さて以をモツテとひきつめて訓むは、例のいやしき音便なり。慮をオモンハカル、以をオモンミルと訓むは、オモヒハカル、オモヒミルなり。垂をナンナントスと訓むは、ナリナムトスなり。然るをナンナンタリとも訓むはひがことなり。欲をホツスと訓むは、ホリスなり。件をクダンノとよむは、クダリノなり。親をシタシンズ、重をオモンズ、賤をイヤシンズと訓むたぐいは、シタシミス、オモミス、イヤシミスにて、皆古言の格なり。
現代語訳
漢籍を読むときに、世間普通とは異なる語が多いのは、たいへん古くから読んできたままの古語が、後に音便で崩れたものである。「曰」を「ノタウマク」と読むのは「ノタマハク」の音便である。また「ノタバク」でもあろう。古語では「フ」を「タブ」とも言うので、万葉集の歌に「ノタマハク」を「ノタバク」とも詠んでいるからである。「故」を「カルガユヱニ」と読むのは、「カルガユエニ(かかるがゆえに)」であるのを、「カ」を一つ省いたのである。これは音便というのではない。「然而」を「シカウシテ」と読むのは、「シカシテ」に「ウ」を添えたもので、八日を「ヤウカ」、女房を「ニヨウバウ」と言う類である。「是以」を「コレヲモテ」と読まずに「ココヲモテ」と読むのは、古語のままである。古語では「コレ」と言うべきところを「ココ」と言うことが常に多い。さて「以」を「モツテ」と詰めて読むのは、いつもの卑しい音便である。「慮」を「オモンハカル」、「以」を「オモンミル」と読むのは、「オモヒハカル」「オモヒミル」である。「垂」を「ナンナントス」と読むのは「ナリナムトス」である。それを「ナンナンタリ」とも読むのは誤りである。「欲」を「ホツス」と読むのは「ホリス」である。「件」を「クダンノ」と読むのは「クダリノ」である。「親」を「シタシンズ」、「重」を「オモンズ」、「賤」を「イヤシンズ」と読む類は、「シタシミス」「オモミス」「イヤシミス」であって、みな古語の型である。
解説
関連する章句
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『玉勝間』一の巻 からぶみ読みのことばまた好をヨミンズ、悪をニクミンズと訓むなどは、ヨミス、ニクミスにて、これも同じ古言の格なるに、ンを添えたるなり。トキハをトキンバ、ズハをズンバと云う類も同じ。涙をナンダ、成リヌをナンヌ、畢リヌをヲハンヌ、遂ニシをトゲンジ、成リニシをナリンジと訓むたぐい、音便にンと云う事、なおくさぐさ多し。
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『玉勝間』一の巻 音便の事古語の中にも、いとまれまれに音便あれども、後の世のとはみな異なり。後の世の音便は、奈良の末つかたより、かつがつ見えそめて、世々をふるままに、ようように多くなれり。そは漢字三音考の末に云える如く、おのづから定まり有りて、もろもろの音便五くさを出でず。抑この音便は、みな正しき言にあらず、くづれたるものなれば、古書などを読むには、一つもまじう可きにあらざるを、後の世の物知り人、その本の語をわきまえずして、世のつねに云いなれたる音便のままに読むは、なおざりなる事なり。すべて後の世には、音便の言いといと多くして、まどいやすし。本の語をよく考えて、正しく読むべきなり。中にもンと云う音のことに多き、これもと古言の正しき音にあらず、ことごとく後の音便なりとこころうべし。さてその音便のンの下は、本の語は清音なるをも濁らるる音なれば、皆必ず濁る例なり。たとえばネモコロと云う言を、後にはネンゴロと云うが如し。ンの下のコ文字、本の語は清音なるを、上のモをンと云うにひかれて濁る、みなこの格なり。然るを世の人、その音便のときの濁りに口なれて、正しく読むときも、ネモゴロと、コをにごるはひが事なり。この例多し。心得おくべし。
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『玉勝間』十の巻 はじめを濁る詞言のはじめを濁るも、稀れ稀れには有るは、蒲、石榴、楚、斑、紅粉などの如し。これら古き物にも見えたる詞なり。後世にこそ濁りて云え、古はみな清みて云えりしなり。この外にもなお有るべし、皆同じことなり。蒲は、蒲生など云う時は、今も清めり。ざくろは、石榴の字の音なるべし、されど六帖の題にも有り、芭蕉なども、古今集の物名に、はせおばと有るは、上のハもじ、古は清みてぞ云いけむ。楚は末枝なり、末をスワと云うは、声をコワヅクリなど云うと同じ。斑は、神代紀にも、斑駒と見えたり、これをムチゴマとも訓めるは、古はフを清める事を知らずして、鞭をも俗にブチと云うにならいて、これをもムチなるべしと心得たる、おしあてなり。紅粉は、和名抄に経粉と見えたり。上の件の外に、ゲニと云う言は、現の字の音にて、後のことなり。場は、古くも大庭馬場などは見えたれど、ただ場と云えることは見えず。こはもとニワにて、大庭はオオニワ、馬場はウマニワなるを、音便にバとは云いなせるなり。また可如などのたぐいは、上に言有りて続く意なれば、異ことなり。
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『玉勝間』一の巻 からうたの読みざま童蒙抄に、或る人北野にもうでて、東行南行雲眇眇、二月三月日遅遅、と云う詩を詠じけるに、すこしまどろみたる夢に、とさまにゆきこうさまにゆきてくもはるばる、きさらぎやよい日うらうら、とこそ詠ずれと仰せられけり云々とあり。むかしは詩をも、うるわしくは斯くさまにこそ読みあげけめ、詠むるはさらなり、古えはすべてからぶみを読むにも、読まるるかぎりは、皇国言に読めるは、字音は聞きにくかりしが故なり。然るを今はかえさまになりて、なべての詞も、皇国言よりは、字音なるをうるわしき事にし、書読むにも、読まるるかぎりは、字音に読むを善き事とすなるは、からぶみ学びのためには、字音に読むかたよろしき故もあればぞかし。
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『玉勝間』四の巻 御国の言と外ッ国の言とおのづから似たるも同じきもある事皇国の古言と、漢字の音と、おのづから同じきも、まま有るなり。ケと気、ヤと耶、サカと尺、ウマと馬、ニと死、ハグと剥、スと洲などの如し。なお有るべし。また蝉は、セミセミと鳴けば、その声によれる、本よりの名か、字の音をとれるか、これらはわきまえがたし。このたぐいもなお有るべし。文、銭、関などは、字音なる事しるし。然るをこの文、銭などになずらえて、いささかも似たるが有れば、皆その字音をとれりと心得るは、ひが事なり。また梵語、朝鮮語などと似たるが有れば、それをもかれを取れる物と思うめり。まづ梵語をとりて、ここの言にしたるは、有る事無し。たまたま似たるが有るは、おのづからの事なり。千万の言の中には、おのづから似たるも、同じきも、などか無からん。また今の朝鮮の言と同じきは、寺、郡などのたぐいは、まことに韓語をとれるなり。
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『玉勝間』一の巻 もろこしぶみをも読むべき事から国の書をも、いとまのひまには、ずいぶんに見るぞ善き。漢籍も見ざれば、その外国のふりの悪しき事も知られず。また古書はみな漢文もて書きたれば、かの国ぶりの文も知らでは、学問もことゆきがたければなり。かの国ぶりの、よろづに悪しき事をよくさとりて、皇国だましいだに強くして、動かざれば、夜ひるからぶみを見ても、心は迷う事無し。然れども、かの国ぶりとして、人の心さかしく、何事をも理を尽くしたるように、こまかに論い、よさまに説きなせる故に、それを見れば、かしこき人も、おのづから心うつり易く、まどい易きならいなれば、から書見むには、つねにこのことを忘るまじきなり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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